ひなぎく心理ルームでは臨床心理学の立場から、いろいろな心の「悩み」や「葛藤」、「違和感」などに対してお話を充分にお聴きし、共に見つめ、整理しながらカウンセリングを進めていきます。
面接技法

なかなか何を記載しようか定まらず、あぁ〜気が付けばお昼から何も食べてないので、浮かばないんだ・・・
本日は退散しょう・・・、と思った矢先、何を血迷ったのか、この様なタイトルで書き始めてしまいました。 (笑)

さすがに、「臨床心理士」のカテゴリーに入れるにはあまりにもお腹が空きすぎていると判断しましたので、
私の思考、つぶやきとしてあしからずです。 (笑)

理論的に様々な技法があります。

少なくとも、臨床心理士と呼ばれる我々は、基礎的な部分では一通り学び、その中で自分が惹かれる技法や理論を深めて行くことになります。


何に興味関心を持つかは、臨床心理士それぞれに違います。


その意味では幅広くあらゆる分野に臨床心理士が存在し、ある種、心の専門家という漠然としたイメージ以外に、一般の方々にとってつかみ所のない、何をやっている方達なのかが分かりづらいという結果になっているのかもしれません。

仮に、同じ理論軸をもっている臨床心理士でも、厳密に比べることは不可能ですが、その人の持っている人柄やクライエントとの相性、相互作用によってカウンセリングの成り行きは自ずと違ってきます。

この仕事は人がどのように面接をしているかを観て学習することは出来ません。
ただ、訓練分析・教育分析という形で、自分がカウンセリングを受けることで、直接的に観察することは可能です。

ただ、この場合、自分が(真剣に)当事者なので、「観察」という言葉は厳密にはあてはまりません。


本に書いてある技法論をいくら知っていても、臨床の場面で本に書いてある情況が今ここで起こっているこのことである、と分からねば、何の意味も持ちません。

分かる所まで感性がたどり着いたその次には、その気づきをそのカウンセリングの中で、クライエントの役に立つようにどう生かすか、フィードバックするか・・・、その腕が身に付かなくてはなりません。
 

さらっと書きましたが、故に我々臨床心理士の研鑽は臨床を続けている限り続けて行かなくてはならないのです。

その面接技法は常に、第三者に説明できうるだけの客観性を持ち合わせていないといけない側面を持つのですが、言語化できないその人の醸し出す空気感もそのカウンセリングに反映されるのは言うもでもありません。

その様に考えると、究極の所は、客観性を担保しつつ、独自性を持ったその人のカウンセリング(面接)技法が出来上がっていくのだと思います。


お陰様で、お腹がぺこぺこの割には良い感じで一区切り書かせて頂いた感がありますので、(笑)
この辺で失礼させて頂きます。


ご精読ありがとうございました。




| 私の思考 | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0)
自分の居場所
「居場所がない」・・・・。

そんな言葉を聞いたなら私はとても切なくなるでしょう。

「家の中で居場所がない」とか「職場・学校での居場所がない」とか具体的な場所をさして表現されることが多いのかと思いますが、その内実は心の落ち着きどころがないと言い換えることができるのかも知れません。

自分というものの存在価値を揺るがすような感覚とも言えるかも知れません。

一生の中で「居場所がない」などと感じることは一度もなく過ごす人が大半であることも想像に難くありません。

もし、切なくも「居場所がない」と感じてしまう自分に出会ったらどうすればいいのか。
答えは簡単ではありません。

疎外感・孤独感・孤立感、必要とされていない感じなど様々な感覚がその周りを取り囲んでいることでしょう。

人とのつながりが切れていくことともイメージが重なります。

人は人とつながることによって孤独を癒し、自分の存在価値を確かめ、日々を紡いで生きていくように思います。

社会の中で活躍する、家庭を持って頑張るなど建設的なかたちで人とのつながりを持ち続けられるのはとても幸せなことです。

ただ、人それぞれ当たり前ですが、色々な人生がありその置かれた環境の中で学習したさまざまな人生モデルがあまり良いものでなかったりすると、圧倒多数の人が歩む道のりがそぐわないことも往々にしてあるわけです。

価値観の多様化した昨今においてもなを、圧倒多数の人の道のりでないスタイルで生きていくことはたやすいことではないと私には思われます。

その人独自の人生を、その人自身がどう受け入れるか・・・。 
その入り口にはやはり人との関わり、他者の理解があるに越したことはないと思うのです。

人はなかなか自分とは違う形での人生を歩む人を受け入れがたい側面があるように思います。

このことは、大なり小なり皆、自分の思いどうりの人生を送ることが叶っているわけではなく、日々、何らかの妥協を繰り返しながら生活していることと関係しているようにも思います。

良し悪しというものではなく、皆、自分の受け入れやすい側面のみにスポットライトを当てて生きているので、
違う生き方を認めると自分の生き方がぐらつくので、たやすく受け入れる事ができないということも心理的には起こってきます。
この様な自己防衛の動きが無意識的に作用するので、心理的に健康に日々生活できているとも言えるのです。

この様に考えると、居場所がないと感じた時、日常の中でその居場所を再び感じていくと言うことが、周囲との関わりではなかなか難しいかも知れないことも想像されます。


カウンセリングは、カウンセラーとの(専門的な)関わりを通して、自分の心の中に自分の居場所をつくる作業であるとも言えます。


何だか、カウンセリングお勧めの宣伝で締めくくるようで恐縮ですが(笑)どうやらその様な締めくくりに収まってしまいそうです。


あしからずご了承ください。

それでは、この辺で。


(笑)











| 私の思考 | 19:32 | comments(0) | trackbacks(0)
無意識とのおつきあい

色々な職業がこの世の中には存在しますが、「無意識」という言葉を仕事のなかで利用する職種としては、
臨床心理士が正統派(?笑)では上位にランクされるのではないでしょうか。

心理療法、特に精神分析などにおいてはクライエントの無意識に隠れた気持を意識化していくことが仕事になるといえます。

私が職業人・臨床心理士として仕事をするときには、日常の生活の中とは違ったアンテナを出し、
クライエントに向き合い無意識に何が動いているかを意識しようとするわけですが、日常において他者の無意識を全く意識しないかというと案外感じていることも多いような気がします。

抽象的な表現になると思いますが、しばしおつきあいください。


まず、分かりやすく説明するために、歩くことを思い浮かべて下さい。
「右足出して、左足出して・・」 などといちいち意識して歩いておられますか?
それは、学習されて無意識的に動いていると言えます。
「癖」といわれるものやあらゆる言動がほとんどと言っていいほど無意識的に営まれていると言えます。

しんどいときにしんどい表情になる、落ち込んだときに節目がちになる・・などなどの他者から見て取れる様子もその人が意図的に見せようとしているのではなく無意識的に現れてしまっていることがほとんどなのではないでしょうか。

臨床心理士などの仕事をしていると、「顔色を見てる子ですね」 などの会話がされることがあります。

私自身も、母親の顔色を食い入るように(笑)見ていたこどもでした。

なぜ見るか? といえば、その必要があるからです。
なぜ必要か?
それは、人によっても違うと思いますが、自分が不利益を被らないように防御するため、もしくは気に入られるためというのが多いのかとは思います。

死亡に至るほどの虐待を受けるこどもなどは、命がけでその人の顔色を見ているといえるでしょう。

それ程ではないにせよ私なども、母親の顔色を見ることにたけ、社会に出でからも人の顔色をみて神経をすりへらし、くたくたになってしまう状態といえました。

そんな中で、カウンセリングの道に興味を持ち、学び、人の顔色を見ると言うことが、仕事で生きてくることに気づきました。

もちろん、自分の無意識に振り回されず、クライエントの益になるように職業としてその感性を働かせていくためには、それ相応の学習と訓練とそれにかかるお金を費やす必要がある訳ですが。 

私がまだ十代だった時期に、心に強く感じていた印象的な思いがあります。
それは、
「わたしは、その人自身が怒りや不快などのマイナス感情を意識する前に読みとれる」 と。
よって、相手が意識する前に対処することが可能なので、私がからんだ不快体験は相手に意識される前に
消失させられると。

若さゆえの傲慢さが見え隠れしますが、今の私からみてもわりと妥当性があったのではと思います。
ただ、そりゃ、あってるかも知れないけどそんなに神経張りつめてたら、病気(神経症)になるわな(笑)という話です。

このような意識が強かった時期は確かに病んでいましたし、人は勝手に、いろいろな見方、感じ方をするから、いちいちそれに振り回されていては身が持たないことに気づき、不必要な時(日常)は人の顔色を必要以上に見る感性にガラガラガラ〜〜〜と、シャッターをおろすことに長い年月をかけて成功したのです。

良い意味で、気にしなくなり、繊細な感性は仕事の時に利用するという具合にシフトしていきました。


この様に見ていくと、日常の生活の中で、なにがしかの不自由を感じた人は
「何でこんな風になってしまうのか・・・・」 に始まって、無意識とのおつきあいが濃くなるのかもしれません。


私は、今では無意識とのおつきあいは濃く濃く、仕事にしてしまいました。 (笑)


ちなみに、ひなぎく心理ルームの「ひなぎく」は私の誕生花で、「無意識」という花言葉をもっているのです。


今後とも、ひなぎく心理ルームをよろしくお願い申し上げます。



何か変な終わり方ですが、ご精読ありがとうございました。 失礼します。 (笑)





| 私の思考 | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0)
私という人
私という人はどこにいるのか?

あっ、混乱を きたしたわけではありません。   (笑)
まとまった考えかあって書き始めたわけではないことを、無責任にもはじめにお伝えしておきます。

あっ、それとお酒を飲んでいるわけでもありません。  (笑)

私から見た私と、人から見た私は違うでしょうし、見る人によっても私が違って見えるのだと思います。

自分作りをする思春期といわれる時期には、人から見た私が急激に気になりはじめ、時に混乱をきたすほどに思い悩むことがあるものです。

人は自分が思うほど、こちらを意識していないものだ・・・や、私に反応して相手の機嫌が左右しているわけではないのだ・・・などの考えに思い至った、という経験は割と多くの方にあるのではないでしょうか。

そして、時が流れると共に人のことはお構いなし!と、良きにつけ悪しきにつけ人は進化します。(笑)

私の場合も、他人の評価や意見に左右される側面と、かたくななまでに自分の思いでしか動けない
部分と相反する両面を持っていたように思います。
左右されるというよりは、意見されたくないという思いだったかも知れません。
それだったら、相反してませんね。  訂正。 (笑)

意見されたくないから、アルバイトであっても、いわれないように神経を張りつめ、必至で動き、
適応しようと頑張っていたように思います。
このこと事態は悪いことではないのですが、本質的な所で、人の意見を寄せ付けないという姿勢は、
自身の余裕のなさから来ていたと思います。

もっと、極端な言い方をすれば、万能感を持っていたといえるかも知れません。

これは、幻想なのですが、この様に思っていないと自分というものが保てない自信のなさ、もろさがあったのではなかろうかと思います。

現在は、臨床心理士という資格を得て、臨床家として仕事をし、私は・・・・です。という社会的肩書きが出来、それなりに社会の一員として貢献できているかも?という、自負心がもてるに至り、その事に正比例して人の意見を聞く耳がもてるようになったのではないかと思います。

(このことは、職業人としての私ではなく、プライベートにおけるわたしの「聞く耳」ということであって、
カウンセリングをしていて「聴く耳」がないというものではありません。)

私の場合、私というものは、職業を持ち社会の中で私が認知されたときにくっきりと私自身の手の中に感じられたと言えます。

人によっては、こんな疑問を持つこともなく自分(私)というものが確かなものとして、初めから感じられているという人もおられると思います。

この様な方は、私の勝手な思いですが、自分自身に対しても割と肯定的な感覚を併せ持っておられるのではないかと想像します。

自分って何なんだ!と、混乱が長引くタイプは、逆に自己否定感が強いのかなとか・・・考えたりします。

私の場合は、家族という単位で「私」がしっかりと感じられなかった、つまり肯定されている感じが持ちきれなかったことが「私というもの」を保つために「万能感」という、自己が肥大した幻想をしばし抱くことにつながったのではないかと思うのです。

その様な意味においては、自己防衛として「万能感」は、ある種の役割を果たしてくれたのではないかと思います。

現在においては、歯に衣着せぬ物言いをする私であるという性格的側面には、「万能感」の余韻をただよわせる節もありますが、一応のバランスを持った人になっているのではないかと自分では思っております。   ドキドキ (笑)


一区切りつきましたので、今日はこの辺で。



ありがとうございました。










| 私の思考 | 20:31 | comments(0) | trackbacks(0)
いかりが支える生き方
もう40才の私と、まだ40才の私。
思うことも変わりゆくものと変わらないもの、いろいろあるように思います。
今、書いている時点での、「私の思考」ということになりますが、人生の通過点での、
私的わがままの1ページとして、表現させて頂こうかと思います。

「いかり(怒り)が支える生き方」 などど書くと少し乱暴なニュアンスを感じる方もおられるのではないでしょうか。

ここで私が表現したい「怒り」は、意識的に誰かが憎いとか腹立たしいとか言うことを多少は含むことがありつつも、もっと心の奥底に内在化された「怒り」を さしています。

違う言い方をすれば、「意識することが難しい怒り」、もっと強い言い方をすれば、「意識することが許されない怒り」とでも言いましょうか。

このブログに書いていくことは、誰かに対してとか、誰かを見ていてとか、という所から出でくる発想ではなく(もちろん学びは多大ですが)、私の心の中を見ていて出でくることであることを改めてお伝えしておきます。

本題に戻って(笑)、なかなか書き出したものの繊細かつ、深い内容であることに気づき、物怖じしている私がいることに今、気づいております。(笑)
おぎゃーと、産声を上げてから、鳴き声一つで周囲(主に母に代表される養育者)を動かし回る乳児。
それが、叶う事によって自分は存在していていいという自己肯定感や人に対する基本的信頼感の土台を築くとされる理論があります。

私がどのようにこの時期を過ごしたかは、母亡き今となってはわかりませんが、私の心の奥底には
欲求に対する不満があるように思えてなりません。
それは、現時点において、少しやわらいだからこそ、より感じられるに至っているとも言えるように
思います。

欲求が満たされないことで、「怒り」を心のどこかに持った私は、その事によって、生きづらく苦しい思いもしながら、同時にその怒りと苦しみの上に生きる事をしてきたのではないかと。
そのえも言われぬ「怒り」と共に生きてきたから、今の私があり思考する私があるのではないかと。

しかし、少しずつ何かが緩やかに変化して 「怒り」の上にのみ鎮座して生きる必要がなくなってくると、ある面では心理的揺らぎが生ずる感があります。
ほんの少しの生き方のズレと言ってもいいほどの違いなのですが、私にとって、多分他の方にとっても、それは容易に変化させられるものではないと思われます。

抽象的な表現でわかりにくいかと思いますが、生き方が少し変化する、させることの困難ととまどい、
その人なりの歴史の上に立つ生き方の在りようを容認することの大切さを、私は言いたいのです。

「いかりが支える生き方」
怒りが心の奥底にあるなぁと思った私が、自分の人生を意識的に肯定し直す作業の途中に、怒りがあるけど、それがあったから今があり、それをなんとかするべくのたうち回り、結果、今を生き生きと生きれている、だからこんな生き方もありだと思う。  と思う、今日この頃です。 (笑)


という、お話でした。










 
| 私の思考 | 20:32 | comments(0) | trackbacks(0)
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
LINKS