2月はアップに至ることができませんでした。
「昨今の私」のカテゴリーで取り留めない内容ですが記します。
2月のこまごまとした大変ごとに新しいパソコンへの移行ということがありました。
どうしても解決できないことを遠隔操作で2回おせわになりなりましたが、
なんとか完了しました。
遠隔操作のすごさに大喜びな私でした。
そして新しいパソコンは、私の入力の速さがそれなりになっていることを知らせてくれ、
ストレスフリーを味わっています。(笑)
さて次は、確定申告を急がなければというところです。
4月からは、ひなぎくの開室日を3.5日として、2日を外勤にあてます。
ありがたいことにひなぎくへの新しい来室者も今までにない感じでじわじわと増えています。
2月から、考えないといけないことが多すぎますが、
時間の流れにその答えをゆだねるしかないことも多いなぁとも感じています。
でも考え続けているということは、
私にとって当たり前のことであり仕事にも反映される鍛錬ともいえ思考を止めない私です。
止めれない?…のかも。・・・温泉や岩盤浴の中では止まっているかな。(笑)
ほんの、ほんの少しのとりとめもないお話でした。
3月になりました。
皆さまも体調など崩されませんようどうぞお体大切にされながらお過ごしくださいませ。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>みなさまはどのように新年を迎えられたでしょうか。
元旦に能登半島地震が発生して、のちには航空機の事故も発生するなど、
案ずる思いとともに新年を迎えることとなりました。
能登半島地震で被災された方にこころよりお見舞い申し上げます。
元旦には下鴨神社に初詣に行き、そこから地元の神社にもお参りに行き
自宅に帰りつくと地震の発生を告げる画面に遭遇でした。
下鴨神社です。
おみくじは、夜明けを告げる内容のものばかりでした。
いただくおみくじは例年決まっているのですが、その内容が違うことがなく、
そろうことには毎年驚きです。
おみくじには、一度つぶれたものが復活するとありました。
つぶれたもので思いつくことがいくつかあるのでどうなっていくのかと思います。
つぶれたものがいくつかあるのか・・・生きるとは上がり下がりです。
感動は苦があって成り立つもの。
苦があってこそ、本当にありがたい。この上ない思いになります。
ありがたいは、やはり有難いなのですね。と、つくづく思います。
それにしても天災の苦はいかばかりのものなのでしょうか。
私は、阪神淡路大震災の時に5強の揺れを体験したのみで、
当時、震災後に2年間大阪や西宮でボランティアでの活動をしましたが、
傾いたビルや被災した方のお話を聞いても思いを馳せることが全く及ばないと思い、
「私にはその苦はわからないんです」と伝えることしかできませんでした。
でもそう伝える私に、体験されているこころの苦を明かしてくださいました。
その方々の、子どもたちの言動から、
実感として私に伝わってくる情緒体験をしたこと(のみ)でした。
激動の年明けとなりましたが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
ひなぎく心理ルームは、来年度4月をもって20周年を迎えます。
これからも粛々とその営みを継続してまいります。
皆様にとりましてもこの一年が実り多き一年となりますように願っております。
いつもお立ち寄りいただきありがとうございます。
暖冬とはいえ、お身体たいせつにお過ごしくださいませ。
]]>今年ものこすところあとわずかとなりました。
私の2023年を振り返ります。
2023年も、ひなぎく心理ルームでの臨床を無事終えることができました。
年が明けてからも私の臨床実践の中核として励むことです。
そして、2023年の新しい活動は社会福祉法人での研修委員長の任でありました。
適当に程よく…が、できない私にはたいへんな苦も存在しましたが、
そこは私の辛抱のしどころでなんとか形になって年を越すことができそうです。
今までと勝手が違うことで周囲も巻き込み小改革に突入です。
よりよくなるには避けられない振動を立ち位置は違えど皆で体験したことでした。
次に、
いきなりの写真の登場です。
12月11日(月)巡拝に行った比叡山延暦寺です。
いつも東山にそびえる比叡山を眺めていることですが、参拝は初めてのことでした。
自宅から車で30分ほどで到着です。
東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)というエリアがあり、
東塔にある国宝殿や眼下にみえる琵琶湖の景色なども含めて、
じっくりと1日かけて巡拝しました。
延暦寺内にある喫茶ではお抹茶の梵字ラテをいただいきました。
この喫茶(延暦寺会館内)からの琵琶湖の景色です。
曇り空でしたので目をこらしてイメージで補っていただきますように。
東塔にある、阿弥陀堂です。
私が最も心惹かれたのは、西塔の「浄土院」(最澄の御廟)です。
その空間の次元が違いました。
最後に行った横川エリアでは、横川中堂の中で一人で参拝していて、
シンプルな一つの空間の中をくるっと回るだけなのですが、
少し展示物を見るために逆行したことで、
出入り口の一つ手前の角を出入口と勘違いしてしまい、
お堂の門が閉まってしまったとパニックになり、
「すみません〜」と叫ぶ始末。
すぐに出入り口の売店におられた上人さんが「は〜い」とお返事をくださり、
お堂の中で合わせていた手をそのままに、
「すみません、出口がしまったかと思ってしまって」と、
お詫びに微笑みで最後の参拝を終えました。
方向音痴というものはこういうところでも発揮されます…。(笑)
この巡拝は、私のお礼と励むことの誓いの巡拝でした。
ひなぎく心理ルームにお見えくださる方は、自力で当ルームを見つけて来られる方と、
紹介で来られる方があります。いつもご紹介くださる個人の医院様は、
患者様が飽和状態で新患さんをとれないのだと、秋のご挨拶時にお教えくださり、
自ずと当ルームに紹介してくださる方もなくなってしまうことです。
そのような中、当ルームの方々も、
自身で思いを巡らせて自ずと言動を選択できるようになられた方は終了となります。
そこで、2024年4月より私は、スクールカウンセラーとして比叡山延暦寺学園、
比叡山中学校高等学校にお世話になることとなりました。
たいへんありがたいご縁に感謝の思いでいっぱいです。(月・金の終日勤務予定です)
開業臨床と学校臨床と社会活動と研鑽を推し進める2024年となります。
研鑽も今まで通りこの上ないありがたい環境の中で頑張ります。
査読の返信が遅いのが難ですが、致し方ありません。
ここも融通の利かない私で、ひとつづと思ってしまい、次の論文には行けない私です。
のちにはこのあたりの融通は利くといいのですが…。
投稿してから2年が経過しました。私の改稿に8ヶ月を要しましたが、
留め置き18ヶ月は勘弁です。
まだまだ留め置き更新中。と、ぼやきで新年を迎えるのもなんですが、
私にとっては大切な大切な取り組み事であり、生活設計にも直にかかわることです。
お忙しいこととは思いますが、よろしくお願い申し上げます。と伝えたいです。
100%伝わりませんが。(笑)
師の定例セミナー以外の研修、2月23日はすでに仕事ありですが、
3月10日はオンラインで参加予定で楽しみなことです。
また、私には直接の関係はないことですが、4月から精神分析協会の関西でのセミナーが、
開始されることも、いよいよ関西を拠点とした活動がはじまるのか!と喜んでおります。
2023年の思いのたけを書かせていただきました。
何より、当ルームに足を運んでくださる方に感謝です。
私にとっても当ルームの存在があっての私であると思っています。
それでは、皆様もどうぞよいお年をお迎えくださいませ。
いつもお立ち寄りいただきありがとうございます。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
感謝です。
]]>
来室の方には1ヶ月以上前にお知らせ済みで、すでに休暇に入っております。
なかなかアップに至れずご無沙汰となっておりました。
冬期休暇は、2023年12月25日(月)〜2024年1月8日(月)までとなります。
1月9日(火)より開室となります。
ご予約のご希望やお問い合わせは、留守番電話にいれていただくか、
HP右上の「お問い合わせ」よりご連絡いただきましたら、
確認しだい折り返しさせていただきます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
また明日にアップいたします。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>第69回日本精神分析学会が、11月3日から5日に行われることに先立って、
2日(木)午前に京都大学楽友会館において表題の研修会が開催されました。
無心を巡る精神分析家と哲学者によるシンポジウムです。
登壇された先生方は、
松木邦裕先生(京都大学名誉教授・精神分析家)
西平直先生(上智大学グリーフケア研究所教授/京都大学名誉教授 死生学・教育人間学)
Rudi Vermote (Professor Emeritus University of Leuven・Training Analyst and past
president of the Belgian Psychoanalytical Society) 先生です。
ご講義が始まるにあたって京都大学の西見奈子先生より、
この講義の内容は金剛出版から書籍化されると告げられました。
そうでしょう。そうでしょう。と思う私です。
レジメの内容は大変高度なものですが、私のこころに沁みこむようです。
それぞれの先生方が互いをリスペクトしながらなされたご講義は、
内容もさることながらその凄みをさらに増したように感じました。
内容は私に述べるすべもありませんので書籍をどうぞです。(笑)
ここでは、私に引き寄せての記載です。
ベルモート先生のレジメに、ある言葉が出てきました。
邦訳(清野百合先生による)はカタカナで、ゲラッセンハイト(放下/手放すこと)と、
してくださっています。ドイツ語で、Gelassenhiet と記すようです。
そう、「放下」です。
これは10年前に、川本剛空上人が、私のために書いて下さったものです。
当ルームの玄関を彩ります。
ルームを去る時にはときおり感謝を込めて会釈します。
恥ずかしながら意味は今ももちろんわかるに及んではいませんが、
意味がもたらされた所在は理解できました。(笑)
松木先生、西平先生、ベルモート先生、ありがとうございます。
次の日の学会では、ベルモート先生のレジメの中にある、ある言葉を、
私がご挨拶をした先生が私に伝えてくださいました。
あまりに過ぎる言葉なので記せませんが、うそのないひとことであることは感じました。
学会は、学びもさることながら、
会うべきひとに偶然会う(私ひとり入った飲食店でその先生だけおられるとか)
ことの面白さと、その土地に触れる(広島でした)楽しさがあり、
師は学会はお祭りだといわれていましたが、常の学びをともにする仲間ともいつもと違うテンションで、私なりにお祭りを満喫することができました。
来年度に向けてのもろもろの準備と日常の大切な臨床業務に精進あるのみ!!と、
気持ちを新たにしております。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
今日の京都は晴天ですが、それでもこよみは立冬です。
週末からぐっと冷え込むようですので、皆様におかれましてもお身体大切になさってください。
お読みいただきありがとうございます。
]]>きんもくせいの香りがこころを和ませてくれます。
カテゴリー「私のつぶやき」で、少しつぶやきます。
昨日、京都いのちの電話で相談員の全体研修を行いました。
私は、同じことを繰り返し言ってしまう癖があるのですが、
昨日は、研修のはじめと中と終わりに「きんもくせいの香りを感じながら・・・」と、
繰り返しました。
そして、またブログのお題になりました。(笑)
だって、外にでるとどこからともなくいい香りが流れてきてくれるのですから。
その甘い香りにこころが柔らかくなることを感じます。
こころが柔らかくなる…って?ですが、そんな感じです。
話は変わりますが、
12年前の10月4日に師と週1回の訓練分析の契約書を交わし、
師が京都大学を退官されて福岡に戻られるまでの4年半お世話になりました。
現在も毎月定例の研究会でお世話になっています。
そして、今年の10月4日に新たにはじめたことがあります。
週1回30分の取り組みです。
それはオンラインによる複数人での瞑想です。
私にとっては自身の心身との出会いの機会となっています。
この先生との出会いも師と同じく京都府の臨士会のセミナーでした。
京都大学で研究員もされていてほのぼのするお人柄に癒されています。
私よりは全然お若い女性ですが海外に論文を発信されてもいるようです。
研鑽の分野は違うのですが、もとに仏教があるところや、
私的には、ビオンの記憶なく、欲望なく、理解なくや直観を働かせること、
などに重きをおく自身の臨床に間違いなくプラスになる体験であると確信しています。
同じことを繰り返して言う必要がなくなるのではないかと思っています。
このことは、おそらく私の生きるすべとして身についていて他者に伝える、自我の再確認、
私の中の私にもう一度伝える、とか、おそらくそのような何らかの意味があるのだろうと思うのです。
なので、このことをおおよそ馬鹿にするニュアンスですが、指摘されると痛みを覚えます。
瞑想は、自身の身体と情緒にであう特別な時間です。
味わって分かち合っていきたいと思います。
私の仕事にとって言葉はとても大切ですが、それと同じくらい言葉にしない、
言葉にならない次元の何かをどう受け取って、どう保持して、
どう変換するかも大変重要です。
変換は、言葉であるかもしれませんし、
さらに違う感覚として認識されることかもしれません。
また・・・全く違う話ですが、2度目の査読が8か月を過ぎても帰ってきません・・・
そのうち帰ってくることと思いますが・・・。
10月は何かを始めるのにはよい季節なのかもしれません。
大切なことが始まって続いていきます。
なんとはなしの、まとまりのあるようなないようなつぶやきでした。
お立ち寄りいただきありがとうございました。
みなさまにおかれましても、どうぞよい季節を満喫なさってください。
]]>(2)発汗(3)身震いまたは震え(4)息切れ感または息苦しさ(5)窒息感
(6)胸痛または胸部の不快感(7)嘔気または腹部の不快感
(8)めまい感、ふらつく感じ、頭が軽くなる感じ、または気が遠くなる感じ
(9)寒気または熱感(10)異常感覚(感覚麻痺またはうずき感)
(11)現実感喪失(現実ではない感じ)または離人感(自分自身から離脱している)
(12)抑制力を失うまたは❝どうにかなってしまう❞ことに対する恐怖
(13)死ぬことに対する恐怖、などのうち、4つ、またはそれ以上で、
突然、激しい恐怖または強烈な不快感の高まりが数分以内でピークに達することを
繰り返すものです。
B.発作のうち少なくとも1つは、以下に述べる1つまたは両者が1か月(またはそれ以上)
続いている。(1)さらなるパニック発作またはその結果について持続的な懸念または
心配(例:抑止力を失う、心臓発作が起こる、❝どうにかなってしまう❞)
(2)発作に関連した行動の意味のある不適応的変化(例:運動や不慣れな状況を回避
するといったパニック発作を避けるような行動)
(DSM-5:参照)
パニック症/パニック障害は、不安にまつわる困りごとのうちの一つです。
検索のキーワードでもよく見かけるのでこのテーマでのアップとなりました。
心療内科や精神科にいけば抗不安薬を始めとする投薬による治療となるでしょう。
心理療法で対応するならば困った症状に焦点をあてる認知行動療法などがあるでしょう。
これらの方法で解決がつくならばそれもよいことと思います。
ただ実際、これらの症状にのみに焦点をあてた対症療法では、
なかなか症状がおさまらない、もしくはまた違う症状が出てきた、
ということも少なくないのではと思います。
当ルームでは、パニック障害もその他の困りごとと同じく、
その方のこころの意識していないところからの、その方のSOSであると考え、
その方のこころが今、このような症状を通して何を訴えているのかとのこころの声を、
知ることに向かって作業を進めていくことになります。
わかってもらいたかったそのかたのこころの声をくみ取ることの作業をもって、
症状はその意味を失い、症状そのものが存在しなくなります。
当ルームは、根治的な治療を提供しています。
そんなにうまくいくの?
もちろん、言うは易く行うは難しです、が、
当ルームが、そこに行きつくための心理療法を提供することは確かです。
来室くださる方は、変わりたい、症状をとりたい、と切に願い、
思うことを自由に話していただければ(話せなければ沈黙でも)、それだけでOKです。
時間は相応にかかりますが、その取り組みの手ごたえをお感じいただけたなら、
毎週1回以上での継続的な面接をとおして、今後の人生を大きく変える何かが得られます。
それは、自分の判断で自身の歩みを決めていける、責任を持てるこころの獲得であり、
自身を肯定できるようになるとりくみといえます。
精神分析の学びは、このことを可能にする理論を私に提供してくれました。
その理論を生かせるか否かは、その治療者次第であることは付け加える必要があります。
京都でも精神分析的心理療法を、低額(500円、1000円、3000円、4000円)で受けられる、ところもあるようです。相性がよく効果が得られればよいでしょう。ただ、少なくとも創始者のフロイトは、一定額以下の料金設定には異を唱えていました。
お話がそれてしまいましたが、
不安は、一定、健康なこころが抱えている到達可能なこころの叫びであると、私は思います。
その叫びを知ることは勇気のいることかもしれませんが、自由なお話とそこで発生する、
正直なお気持ちを私に表現してくだされば自ずと事態は進展していきます。
過日の師の勉強会で、進展は面接の中で起こってきて、それが起こると、納得のいく解釈を
ずっとたやすく与えられるようになるとのビオンの言明の紹介がありました。
このような解釈をお伝えすることこそが、当ルームの仕事と思っており、そこには、
ある種のインパクトをともないますが、そのことをよしとする方々と共に作業を進めています。このような自負ともいえる言明がなせるのも、今までに当ルームをご利用いただいた方々との、経験に裏打ちされているからこそです。これらの経験は重層的なものであり、コメントを投稿できるような類のものではありません。
またまた、お話がそれていきそうですので(笑)・・・、
それでは、この辺でおひらきといたします。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
ぐっと気温が下がりましたのでお風邪など召されませんようにご自愛くださいませ。
]]>
当ルームは、火曜から金曜の9時から夜間21時まで(20時面接開始)開室しています。
夜の時間帯は、お仕事帰りに利用される方に便利な時間帯です。
18時以降の現在の空き時間をご案内いたします。
18時からは、木曜日が開いています。
19時からは、火曜日、水曜日、金曜日が開いています。
20時からの空きはありません。
午前・午後は曜日によって空き時間が異なりますので、お問い合わせください。
土曜日午前は、平日の昼間に来れない方のための初回面接を行うための開室となります。
夜間の時間帯には限りがありますので、ご検討いただければと思います。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
朝晩すこし涼しくなってまいりましたので、
みなさまにおかれましてもお風邪など召されませんように。
]]>あれよあれよという間に月日が経ち、久しぶりのアップとなりました。
「カウンセリングを希望するこころ」と題して、つぶやきたいと思います。
なんらかの症状や困りごとがあって相談にのってほしい、話を聞いて欲しい、
でも精神科や心療内科にいくのは敷居が高いし、こういう時はカウンセリングか…。
そのようなことでどのようなところがあるのかと、
お探しの方も当ルームのブログを覗いてくださっていることでしょう。
実は、少し前にプロフィール欄の写真を私の顔写真に変更しました。
身内にアドバイスされて19年目にして広報のために観念してのことです。(笑)
カウンセリングといっても、いろいろな心理療法があるのですが、
実際にカウンセリングを受けてみようと思う時には、
行きやすい場所であったり、料金であったり、
HPの内容や顔写真などのイメージから選ぶということになるのだろうと思います。
この人に話を聞いてもらおう、この人と自分のこころについて一緒に考えてもらおう。
そう思える人に出会えるまで、妥協せずに探されることをお勧めします。
カウンセリングを受けてみようと思うこころが何を求めているかによって、
しっくりくるセラピスト(カウンセラー)が違ってくるはずです。
なので、当ルームにお見えになる方も、自覚されているものではないのですが、
当ルームが提供するものと自身が求めているものが違うようだとのことは、
とても速い段階(1回〜3回、長くても10回まで)で判断がつくようです。
もちろん、私の方も判断していただけるようにご説明や実際の面接を提供いたします。
実際に会ってみてあなたにしっくりくるセラピストに出会われますように。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
コロナもインフルもそれなりに流行っているようですので、
皆さまにおかれましてもどうぞお身体大切にご自愛くださいませ。
]]>
子どもさんが学校に行きたくないということが多くなります。
頭が痛い、お腹が痛い、微熱があるなどの身体症状もあるかもしれません。
不登校にまつわる対応をどうすればよいか?ということへの情報はさまざまあり、
学校を休ませる方向に行きつくことがほとんどではないかと思います。
実際、休ませてあげることが良いことも多いかと思います。
ただ、学校の中での問題が深刻でない場合は子どもさんを再登校に促すことが大切です。
なのですが、不登校という状態から復学することは簡単ではなく、
つぎなる困難が立ちはだかるのです。
子どもさんの状況に対する適切な見立てが不可欠です。
チェックリストでの答えはあくまで参考にとどめるべきです。
そうでないとせっかくの成長の機会を逃すことになりかねません。
身体症状を出してでも学校を休みたいことには、それなりのこころの中の事情があります。
その事情に思いを馳せて、まずは子どもさんと言葉の交流を持ってください。
それでも理由が導けないことの方が多いと思いますので、そのときは、ご相談ください。
18歳未満の子どもさんがおられる場合は、2回目以降の面接料の割引があります。
お問い合わせをお持ちしております。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
みなさまにおかれましてはどうぞお身体大切にご自愛くださいませ。
]]>いかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。
しばらくぶりのアップとなりました。
コロナ禍で身動きがとれなかった状況から動きがとれるようになり、
久しぶりのひとに会う、ということも増えておられるのではないでしょうか。
今夏、ひなぎく心理ルーム主催の研修会を初めて開催しました。
参加者を得て無事かいさいすることができました。
参加してくださった方との出会いは私にとって記念すべきものとなりました。
今後、研修へのご意見などをいただきながら次回の研修につなげたいと考えています。
もう一つの出会いは、↓これです。
川端通にかかる橋を車で通っていると四つ足の???何??と。
グル〜ッと回って、安全なところに車を停めて見に行きます。
まぎれもなくシカです。
え〜〜〜っ、高野川でシカを見るのは初めてです。警察に連絡しないといけない??
え〜〜〜〜っ、こんなにいる。のべ4頭もいます。
私は橋から写真をとります。橋の上を人がちらほら平然と行きかいます。
???と、わたし。
犬の散歩をしながらこちらに向かってきた女性に声をかけます。
「 シカなんですけど・・・」
「 はい、いつもいるんですよ」「 え〜〜〜そうなんですか 」
「 ええ、毎年、4月にばバンビちゃんが生まれるんですよ 」
「 どこからきてるんでしょうか 」
「 どこでしょうね?あの山か、夜遅くにもそこらにいるときもあるしね 」
「 そうなんですね、じゃあ、これ見慣れた景色なんですね 」
「 ええ 」「 何十年か近くにすんでいるのにはじめてみました。じぁ、警察に言わなくていいですね」
(笑)(笑)「いわなくていいですよ(笑)」
こんな出会いもありました。
その方がおっしゃるにシカは、ある橋からある橋の間にだけ毎年あれわれていて、
それ以外のところにはいかないそうです。
今夏、今、岡山に住む友人にこのことを話すと、
シカは害獣で駆除の対象とのこと、増えて大変になってないの?と。
情報を下さった方の様子では、ほのぼのとしたいつもの光景といった感じでした。
京都ニュースでもなんら聞いたことないしな…。
どうやら地域の人とシカは共存しているようです。
また見に行ってみようとおもいます。と、思っていてもときが経つことですが…。
それでは、みなさまにおかれましても夏バテなされぬようご自愛くださいませ。
いつもお立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>
みなさまにおかれましてはいかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。
2023年度の夏季休暇期間は、
8月7日(月)〜8月21日(月)までの2週間となります。
この間、面接はありませんが、お問い合わせなどへの対応はいたします。
22日からの面接のご希望も受け付けます。
日本には四季があることですが、近年は夏と冬に二分されるような気候となり、
秋の季節が重要なミカン農家さんがトロピカルフルーツの栽培に鞍替えしているのだとか。
気候変動は憂う事態ですが、適応もしないといけないという生々しい現実ですね。
今ある状況に適応しながら、それでも先を見据えて考えることを怠らず、
機を見て行動ですね。
みなさまも大なり小なり、葛藤を抱えながらの日々であることと存じますが、
想いながら考えながら歩みをすすめていかれますように。
同じところをぐるぐる回る思考にお困りであればご相談ください。
それでは、どうぞお元気で夏を乗り切られますように。
いつもお立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>
みなさまにおかれましては、体調などくずされておられませんでしょうか。
さて、「研修会」のカテゴリーでの記載です。
8月のお盆を過ぎた頃に専門家にむけた表題の研修会を企画いたしました。
当ルーム主宰のものです。
私が、不登校の児童・生徒さんやその保護者の方々にかかわるようになったのは、
1997年4月から、いじめ・不登校を専門に扱う精神科医院に勤務したことに始まります。
(この医院の閉院を機に当ルームを開設したので、現在は存在していませんが、
私が勤務した学校のカウンセリングルームの本棚に、院長土屋守先生の著書を見かけることがありました。当時、何度かNHKにも出演されていました)
その後、スクールカウンセラーとして、当ルームにてとなります。
全国的に不登校児童・生徒の数は、ここ数年増加の一途をたどり、
京都府も例外ではありません。
不登校児童・生徒には、直接会えないけれど、その保護者は私たちに会いに来て、
どのように対応したらよいのかとの質問を受けることはよくあることとおもいます。
その問いに、応えるためには、まず、児童・生徒の状況を見立てる必要がありますし、
その保護者の方の過度な負担にならないように配慮しながら、
具体的なかかわり方をお伝えすることが必要になることもすくなくありません。
例えば私たちが保護者の方々の心的な負担に配慮して、労わりを言葉にしているのみでは、
事態は進展していきませんし、子どもさんにどう関わったらよいかを真摯に求めている保護者の方にとっては、私たち専門家の対応がものたりないものになってしまうことでしょう。
私は、不登校児童・生徒の保護者面接の場合、
はっきり、しっかりと見立てをお伝えすることに努めています。
私の見立てを聞いた保護者の方から、反応が返ってきます。
私たちに会いに来る保護者の方は、
当然のことながら子どもさんの情報をたくさん持っておられます。
その持っておられる情報と、私たち専門家が伝える情報がやりとりされ、
子どもさんのこころに、2人で想いを傾けながら面接を進めていくことになります。
まずは、私たち専門家が何らかの見立てをお伝えすることがとても大切です。
それは、泣く幼子に対して母親がどうしたの?こけたの?お腹いたいの?と、
声をかけていくようなものです。
かわいそうにねぇと、声をかけていることでは、
声をかけずに無視をしているということよりはましですが、
その子は自身の状態を表現することばをもつことに時間がかかるやもしれません。
できるならば、こどもが「うん」と、言える内容にたどり着きたいものです。
保護者が、私たちの見立てや想像することを聴いて、そうなんです!、…
そういえば、このようなこともあって…と、保護者の中から子どもさんへの理解につながる
エピソードが話される。そのようなやりとりが存在し始めるために役に立つ視点が、
精神分析の対象関係論の理論の中にあり、
その理論を実践とつなげながらお伝えしたいと考えています。
実りある研修会となるように準備を進めたいと思います。
お立ちより頂きありがとうございます。
毎日、大変な暑さですが、皆さまにおかれましても体調崩されませんように、
お身体大切にお過ごしくださいませ。
]]>
悪しからずです。
ひなぎく心理ルームの提供する精神分析的心理療法の一番の特徴は、
週1回〜3回という低頻度であってもカウチを使用するというところにあると言えます。
まず、頻度についてですが、
週1回以下の頻度では、精神分析的心理療法で達成しうるこころの深いところにある、
過去の体験と現在の体験の重なりの何たるかをしりえることは不可能です。
これは、私の現在までの臨床実践から導かれた現時点での私の結論です。
そして、カウチの使用が椅子とはことなると私が感じている点は、
過去の体験と現在の体験の知的な水準での私との共有ではなく、
イメージの中での視覚的な場面の共有をともなう体験的なものであるということです。
このような体験は、椅子でも可能である場合ももちろんあることです。
ただ、
もっと言えば、私と来室された方が来室された方の過去の体験を共有できる段階に至るまでの、乳幼児期の作業を主とするような場合に、カウチは椅子ではなしえない作業空間をあつらえてくれると私は考えます。
このことが、
頻度を週1回以上に定めて、精神分析的心理療法の提供を私に決めさせた大きな理由です。
来室くださる方は、何も意図せずに思いのままを語っていただくことのみで良いことです。
今現在の、こころに感じられている思いや実際の症状にまつわる困りをお伝えください。
ちなみに初回90分の面接は椅子ですし、その後も椅子で継続していただくことはもちろん可能です。
心理職や対人援助職の方で、自身のこころを見つめる作業をしてみることに興味のある方は、
自身の実体験こそが自身の臨床に生かされることを体験されることと思います。
私自身がそうであったようにです。
梅雨に入った京都は、スチームサウナ状態です。
体調管理も大変なことと思いますが、みなさまもどうぞお身体大切になさってください。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>
ここでの解釈とは、精神分析(的心理療法)で患者さんに治療者が伝える何かのことです。
先の勉強会でウイニコットの論文「対象の使用と同一化を通して関係すること」をよみました。
その中で、解釈が転移の自然な進展を妨げる要素を持つことが示されています。
この論文は、1968年11月12日にニューヨーク精神分析協会で口頭発表されています。
同じ、1968年7月31日にブエノスアイレスで行われたビオンの第12セミナーで、
ビオンは、あらゆる解釈は分析を妨げ、そしてまた分析家の観察をも妨げますが、
私たちはそのことを回避できないということです。と述べています。
解釈をするかしないか、おそらく二人の視点は・・・なんてことは、
わたしがどうこういえることではありません。(笑)ここで言いたいのは、
同じ時期に解釈をする・しない?について言及していることをつぶやきたかったことです。
解釈しないと治療は進展しません(患者ひとりの力で進展しうるところまでは可能)し、
解釈することでワークスルーしないといけない局面を醸成・突破することにもつながります。
ただ、治療者にコンテイメントされるのみで解釈を待たないといけない現象も確実にあります。
ビオンは、先のブエノスアイレスの第2セミナーで失敗についてこう述べています。
失敗は、明瞭に観察できないか、
あるいは受け取った印象を他者へと伝えられないかのいずれかの結果、幾度も生じてくると。
正しくと私は思います。受け取った印象を伝えるのは治療で言えば解釈です。
なので解釈は回避できないとビオンがいうところです。
しかしながら解釈できそうな素材を観察により感知してのち、
治療者がそれを扱うか否かという判断が必要という命題もありそうです。
もっと言えば、いつ、なぜ、解釈するのかです。
つまり、いまここで扱う必要のある素材と転移の醸成を損なうゆえコンテインし続ける素材と…
つぶやきが濃い…。と、思うのは私だけでしょうか。(笑)
今年は早い梅雨入りとなりました。
7月の16日17日とある師のlectureへの参加が叶わないことに関して私のこころは雨模様です。
梅雨と強引に(笑)絡めましたが、つぶやきたいことでした。
両日の終日、社会福祉法人での重要な育成セミナーがあり・・・です。
解釈する?しない?は、実はとても高度なお話です。
いまここで向き合うその方にまつわる唯一無二の内容を、その方に伝わることばを使用して、
しかるべくタイミングでつたえる。
言うは易く行うは難しです。
それでもそのことが私なりに為せているので、開業臨床が成り立っています。
私なりに為せているというのは、
こうあるべしとの正解がある領域ではないので、
臨床家が自身の臨床をねりあげ日々の臨床において更新することができ、
継続して来室する方にはこころの変容を実感してもらえる結果がだせているということです。
生涯にわたってつづく私の研鑽の成果を来室くださる方と同業のかたに、
今後も還元していくことです。
お立ち寄りいただきありがとうございました。
みなさまにおかれましてもどうぞお身体大切になさってください。
]]>カテゴリー「私のつぶやき」を追加しました。
つぶやいてしばらくするとフェードアウトできる内容をと思います。
そしてお題は、気持に寄り添うです。
気持に寄り添うということから連想されることはどのようなことでしょうか。
私には、やはり相対する二人の人が連想されます。親子かもしれません。
その次には複数のひとがひとりのひとに想いをはせるような光景でしょうか。
まず「気持」というのは、その気持ちを持っている人の自覚が伴う要素が多いように思います。
なので、その気持ちの内容によって寄り添いやすかったり、寄り添いにくかったりがあることと思います。
例えば、気の合う友人間では、共有できる寄り添いやすい気持ちが多めにあるので、ゆえに友人なのだろうと思います。
また同世代というのは、膝が痛い、肩が痛い、腰が痛い、胃の具合が…、最近〇〇が…、と、(笑)共有できる話題が多いことは皆さまもご存じのとおりです。
そうよねほんとにと、とっても寄り添いやすいです。
さらに気持に寄り添うと言うことは、
対人援助職や心理相談業務の活動において連想されることでもあるでしょう。
ただ、このような領域での気持ちに寄り添うは、簡単ではないこととなります。
そして、この文言に持つイメージにも相当な個人差があると思います。
誰がそれを発しているかでも、そのことのイメージが左右されると思います。
気持に寄り添う側に寄り添いやすい内容であれば寄り添えるということは言えるのかもしれませんが、そうなのであれば寄り添う側に都合のよい寄り添いやすい内容を期待するのですねと言うことになります。
難題です。
そもそも、寄り添うだけで考えれば、身体的に近い距離にいてというニュアンス。
あっ、なるほど、今、気付きましたが、私がその方の気持ちに寄り添いたいような気持になっているときは、おのずと身体もその方の方に傾いていることです。
ただ、ここでまた難しいことなのですが、それが精神分析的心理療法の中でのことならば、このように、私のこころが動いている状況が何を意味するのかと言うことへの、私自身に対する私の吟味が必要になることです。
私は、こころを砕いて私の仕事を誠実に遂行しようとします。
このような思いを今、記載した瞬間には、気持に寄り添うもなにもそのような文言は正直、
まったく意味をなさないという思いになります。
ここで大切なお断り、このようなお題で、今、記していますが、
最近、気持に寄り添うと言っていた誰かがいて…、ということでは全くもってありません。
はい。
つまり、気持に寄り添うというような、一見みなで共有できそうなニュアンスの文言ではあるのですが、あくまでも皆で共有できそうな文言の域を出ないのかもしれません。
当たり前のことですが、ひとりの人のこころの軌跡の何かを理解すると言うことは、大変なことです。
私と来室くださる方との2人のあいだで体験する何かをもって、
その方の気持ちの、こころの何かを、私と2人で知る。そのことを繰り返す。
繰り返すことができた先には、私の気持ちに寄り添ってもらえたという、
皆が共有できそうなニュアンスを使えるようなところにまでたどり着けることなのでしょう。
一緒に沈んで、底まで行って一緒に浮上するということかもしれません。
2度目のつぶやきですが、今日は、いい天気です。(笑)
みなさまにおかれましても、何かとお忙しいことと思いますが、
どうぞお身体大切になさって下さい。
お立ち寄りいただきありがとうございました。
]]>
今回は、当ルームの名称に「ひなぎく」が選ばれたことについてふれます。
当ルームの名称は、お花の名前がいい!と思った時に、
私の誕生花をキーワードに調べることから始めました。
誕生花も、いくつかあり、その中の1つが「ヒナギク(デージー daisy)」でした。
ヒナギク(雛菊)=この花の古名は「光の眼」。デイズ・アイ(太陽の眼)から、
デージーとう英名がつきました。またスコットランドでは「幼児の贈り物」ともいわれ、
天国にいった子供が地上に落した花だという伝説があります。キク科。原産地は地中海。
花言葉…無邪気、あなたと同じ気持ち
デージー(ヒナギク) 花ことば…平和、希望、美人 (白)無邪気(赤)無意識
ギリシャ神話の時代から、ヨーロッパでは栽培されていたデージーは、「デイズ・アイ
(日の眼)」が語源だといわれています。朝が来て陽光を受けると花が開き、太陽が沈んで
夜になったり、曇りの日には花が閉じるという性質から、こう呼ばれるようになりました。
「希望」という花ことばも、こんなところから生まれたのかもしれません。
日本には明治初期に渡来し、小さくてかわいい菊と形容して、
ひな菊と呼び親しんでいました。また花期が非常に長いことから、延命菊とも呼ばれました。
また別のところでの「ひなぎく」の花言葉は、乙女の無邪気、平和、希望、明朗、
ひなぎく(白)無邪気 ひなぎく(赤)無意識 とあります。
私は、赤のひなぎくの花言葉が「無意識」との記載を目にして、これだ!!と即決しました。
現在の私が、無意識に魅力を感じて名称を即決したことに、へ〜〜と、思います。
なぜなら、19年前の私は、精神分析的な心理療法を行ってはいなかったからです。
無意識!!これだ!!と、たいそうこころが弾んだのを鮮明に覚えています。
19年前の私は、私の無意識に長く翻弄されていた時代を抜け出た感覚を覚え始めていたころでした。それから、私の無意識に解放された感覚と協力してもらっている感覚を感じることが増えていきました。
そして現在は、私の無意識と協働している感覚をもっています。
無意識は、意識できないから無意識なのにあなたは何を言っているの!と、
お叱りの声もあるかもしれません。
確かに、無意識は無意識なのです。しかしながら…、と初めてしまうと、
今回の主旨を外れますので、今日は、ここでお開きといたします。
ひとつだけ、精神分析では、無意識が想定されていて、
意識と無意識は同じこころにあって、つながっていると考えられています。
おしまい。
「ひなぎく心理ルーム」という名称は、検索でヒットさせるには明らかに不向きですが、
私はとっても気に入っています。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
何だか、少し寒いですが、皆さまにおかれましても体調崩されませんようご自愛ください。
]]>心理療法というものには、言うまでもありませんが、面接者がいます。
つまりふたりでの作業です。
ひとりでは、どうしても解決できないと思ったときに、
勇気をもって一歩を踏み出されるのだと思います。
当ルームが提供する精神分析的心理療法では、初回は心理問診表にて情報をお聞きしますが、
2回目からは、自由連想法という、自由に想うことを話していってもらうという形で、
面接を進めていきます。
語れる方は語られる内容から、語れない方は語れないという現象から、
面接者である私が思いを馳せていきます。
ですので、自分の思うことをうまく話す自信のない方も安心してお見えください。
お問い合わせ、お申し込みをお待ちしております。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
まだまだ花冷えが混じる昨今ですので、
みなさまにおかれましてもどうぞお身体大切になさってください。
]]>
桜が開花して4月になると新学期がはじまります。
これまで学校に行けていない子どもさんを抱えている親御さんにとっては、
期待が高まるときかも知れません。
いや、もう半ばあきらめている、あまり期待はしていない・・・。
親御さんのお気持ちもさまざまなものであることでしょう。
子どもさんの登校に向けての親御さんの好ましいとおもわれる対応は、
子どもさんの年齢や状況によって全く異なったものになります。
共通していえる大切なことは、子どもさんの登校にむけた兆候を感じとることに注意を向けてもらうということです。子どもさんの日々の様子に適切に注意を向けておられる親御さんであるからこそ、今、このブログにたどり着いておられることと思います。
そして、子どもさんの側も小さな小さな灯でも、
皆と同じように学校に行きたいと思っておられます。
でも、もう休んでしまっていて他の同級の人たちとは自分は異なっていて、
自分の人生は終わっていると、こころのどこかでは思っておられるはずです。
もし、このブログを目にされた不登校の子どもさんをもつ親御さんがおられたなら、
上記のことを子どもさんにお聞きになってみてください。
子どもさんは、親御さんと同じか、もしくは、それ以上に学校に行けていない現状に苦悩されているはずです。ゲームばかりしていても、のんきに明るくしていてもです。
子どもさんの言動に、再登校を望む兆候があるやもしれません。
年齢が上がるにつれ、不登校状態から再登校に向けた兆候を親に隠すようになるので、
突然の再登校に親御さんがびっくり仰天ということも起こってきますが、
それでも子どもさんの心身の状態が整っていることは、前もって親御さんに理解されていることです。
年々、不登校は増加しています。
令和3年の小・中学校の不登校者の人数は24万人を超えたそうです。
親御さんの希望と、子どもさんの希望をタイミングよくつなぎ合わせることで、
望む登校をはたすことは可能です。
成長を感じられる春を迎えるために、お気軽にお問い合わせください。
お立ち寄りいただきありがとうございました。
寒暖差が激しい毎日ですが、どうぞ皆さまも体調崩されませんようご自愛ください。
]]>今回は、「私の歩み」のカテゴリーで、来年度に向ける思いをつぶやきます。
意識的に考えることと、いざ歩みをすすめる中で感じることは、必ずしも一致しません。
それでも、何かの選択を迫られたときには、意識的に考えて選択しないといけません。
みなさまも、日々、選択しながら、修正しながら歩みをすすめておられることと思います。
4月からは、これまで通り、ひなぎく心理ルームに来室くださる方に向き合いながら、
開業臨床にいそしむことです。
そのことと並行して、精神分析の研鑽を重ねることも大切なことです。
そして、社会活動では、私の最初の師が、関西いのちの電話で研修委員をしておられたことや、
私も二十歳の時に京都いのちの電話の相談員として認定され、多忙で電話相談活動を辞めてからは、年間1万円の資金ボランティアとして現在まで継続してきました。
30代半ばで臨床心理士の資格を取得して、2012年からは京都いのちの電話の研修委員として、
相談員さんの個人スーパービジョンをはじめとする活動をさせていただくようになり、この度、
研修委員長を引き受けて欲しいとお声かけいただき、私の生業である面接業務や、
精神分析臨床にまつわる今後の研鑽を最優先にしたい旨を快諾いただけたので、
お引き受けすることにいたしました。その実は、非常に名誉に思い有難いことです。
京都いのちの電話が昨年から始めた、電話相談員養成講座説明会で研修委員として私が1時間弱お話することが本年もあり、ただいま原稿を作成中ですが、人の話にこころをつかって耳を傾けるということについて、考えを巡らせていると、大切なことに気づかされることが多く、私自身の臨床にも還元できることを感じています。
電話相談員の方々は、中には専門的な知識を持たれている方もいますが、ほとんどの方は、
こころについての専門的な知識を有しておられるということではありません。
しかしながら、かけてくる方のお話に真摯に耳を傾け、ときにかけてくる方の気持ちを汲むような見事な応答をされます。それは、こころの専門家の誰しもが目指すような応答です。
学ぶに値することが山ほどあります。
この度の大役を担っていく中で学ぶことも多いのだろうと思います。
研修委員長は理事にもなり、はじめて理事会にもご挨拶かねてオブザーバー参加しました。
また一つ、私の人生に寝耳に水のお話から新たな体験をさせていただく機会を得ました。
残念な程に(笑)有頂天になる気分はなく、早速、もろもろ考えを巡らせています。
京都いのちの電話での活動が、私のこころの在りようと学びの良いリンクを引き起こし、
ひなぎく心理ルームに来室くださる方に、還元されることだと思います。
さらに、精神分析的心理療法を学ぶ後進の育成にも還元できる学びが得られることと思います。
目の前のこと、与えられたことに微力ながら精一杯取り組むことが、
次の何かに繋がりをもたせてくれるのですね。そのことをまた実感しています。
むりむりむりむり、むりむりむりむり、むり、と繰り返した第一声でしたが…。
大丈夫!!と、はじき返され…。
4月が訪れます。
4月の前に3月がまだあります。21日には、説明会での講演もあります。
5月には…、6月には…、おおよそ年間の頑張り事が見えてきました。
身体を大切にしながら、精一杯、取り組んでいくことです。
みなさまにおかれましても、どうぞお身体大切になさってください。
お立ち寄りいただきありがとうございました。
]]>こころが苦しいとき、このようなここちよさを感じることはとても難しいことです。
ずーと、闇の中にいるようなこころは、苦しみすら感じないかもしれません。
苦しみは感じないけれど、なぜだかカウンセリングには昔から興味を感じていた。
いや、私はずっとこころが苦しくて実は以前から誰かに話を聞いてもらいたいと思ってきた。
おもえば苦しいときに誰かに相談したりすることができずに、ここまできている。
など、カウンセリングに関心を寄せてくださっている方々のお気持ちもさまざまと思います。
改善したく思う悩みがはっきりしている場合もあれば、
とにかく苦しい胸の内を聞いてもらいたいとの思いが強い場合もあることでしょう。
もっと漠然と、なんとなくこのHPを見つけて、ブログを見て「よし!」と、
何がよし!なのかは、わからないけれど行ってみたい、と思う方もおられるかもしれません。
精神分析的な心理療法を通して何がなされるのか、
それを一言でいえば、あなたのこころにあるさまざまなお気持ちについて、
あなたの理解が深まることを成していく作業であるといえます。
理解が深まると、どうなるのか?
こころが苦しい…という形で訴えていたあなたの訴えに内包されていたあなたの気持ちに理解が及ぶことになり、その気持ちを理解されると訴える必要がなくなり、その結果としてこころにずっとあった苦しさが消失するのです。
そして日常にある物事に、豊かにこころ動かすことによる苦を体験でき、
ここちよさや喜びも、それまで以上に体験できるようになります。
今、こころが苦しくて話を聞いて欲しいとの思いがあることや、
今までずっとカウンセリングに関心をもってここまできているは、
健康的に動いているこころがある故、そのように思われることです。
その健康的なこころの声に耳を傾けてみられませんか。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
みなさまにおかれましてもどうぞお身体大切にお過ごしくださいませ。
]]>
当ルームで精神分析的心理療法を受けているのはどのような人たちなのだろう?
と、思われることでしょう。
ひとことで申し上げるなら皆さまのような方々です。
えっ!(笑)
つまり、それぞれの現在の立ち位置の中で、日々を懸命に生きている方々です。
年齢層は、
過去を含めると7歳〜70代まで広範囲となりますが、近年は、10代後半から60代となり、
現在は20代、30代、40代、50代の方々となっています。
カウンセリングを受けてみたいと思われるところから、最近ではまだまだまれなことではありますが、精神分析的な心理療法を受けてみたいと思って連絡をくださる方も出てきました。
私自身が精神分析的な心理療法の価値を実感していますので、
来室される方が自身のこころに取り組んでいかれることの理解は十分にできるところです。
私の実感は、患者としても治療者としても両方でです。
人生の1ページとしてなくてはならない重要な何かが体験されます。
その体験に向かう日々といっても過言ではありません。
日々、生きています。
これからもワクワクする気持ちや愛情を失わずに日々の生活と研鑽に励むことです。
みなさまにおかれましても、どうぞお元気でお過ごしくださいませ。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
すみません。始まったかと思いきや終わりで、あっさりにもほどがありますが、
これにて失礼いたします。
]]>
みなさまにおかれましては何事もなくしのぐことがお出来になったでしょうか。
私は、今日になって歩道の通常状態と凍結状態に翻弄され、
4回転倒しかけましたが、立て直すことに成功しました。
あーこわ! わー! あーこわ! 細心の注意をはらって歩いているのに、
最後は連続で、わー!わー!でした。
カテゴリーが私の歩みなので、私の歩みの話をしているわけではございません。(笑)
あっ、でも似たことかしれません。
転倒しかけても立て直してというところはです。
さまざまなご縁というお題にして記したかったことは、
私の歩みが想像もしていなかったご縁がつながってここまで来たということです。
私の方からご縁を持ちたいとアプローチして始まったご縁もあれば、
寝耳に水のお話でお声かけいただいて始まったこともあります。
開業臨床も勤務していた医院が閉院に向かう方向でなければ始まっていませんでした。
実は開業臨床のみの方向になったことにも私的な事情が関与していて、
それを機にその方向に舵を切った次第です。
つまり、意識的には絶対にできない冒険のようなことが、その時の状況に左右された結果、
具現化して、振り返えれば伸びるべき方向に芽が伸びているようだといったところでしょうか。
もちろん、不安しかないけれどこの方向で伸びるならそれが良いのかも、
というような私の思いは付随していることです。
今後は今までと同様に、
開業臨床において来室してくださる方々に出会っていくことが中心ですが、
そのほかの事業、活動についても今後どのような方向に伸びていくのか、
ご縁が左右することもあるのだろうと思います。
2012年より京都いのちの電話の研修委員として活動している中での動きは、
徐々に動きの増加を感じている今日この頃です。
精神分析方面の研鑽は、当ルームの根幹にかかわることですので、
引き続き最重点事項として気を緩めずに励んでいく所存です。
少しアップが遠のいていましたので、あっさりめの内容ですがアップしてみました。
それでは、あっさりとこの辺でお開きといたします。
寒さ厳しき日々ですが、皆さまにおかれましてもどうぞご自愛くださいませ。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>
本年も、来室してくださる方々やこれからお会いするであろう方々、
地域の方々のお力になれるよう日々精進してまいりますので、
どうぞよろしくお願い申し上げます。
感染症やウクライナの現状、世界を見渡せばこころが苦しくなることばかりですが、
私たちのできることを日々精一杯行って生きていくことしかできません。
皆それぞれのこころが豊かになる歩みをすすめていくことが大切と思います。
豊かさとは痛みも喜びもわかちあえるこころにあるものだろうと思います。
自身のこころには、それらの思いをどれほどのせることができるのでしょうか。
それをはかるはかりが存在しないのでわかりませんね。
目に見えないこころは不確かさのかたまりのようでもありますが、
ちゃんとこころにもその人それぞれの秩序があることです。
それがどのようなものなのかを理解することは簡単ではないことですが。
そんな自他のこころを想いながら今年も頑張ってまいります。
みなさまにおかれましても、
どうぞ一年健やかにお過ごしくださいますようお祈り申し上げます。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>
冬季休暇は、2022年12月26日(月)〜2023年1月9日(月)までの2週間となります。
よって年始は、2023年1月10日(火)から面接開始となります。
面接以外のお問い合わせや初回申し込みは、冬季休暇期間中も賜ります。
HP上にある「お問い合わせ」もしくはお電話にてご連絡下さい。
お電話の際、留守番電話対応となった場合は、メッセージとご連絡先を残してくだされば、
可能な限り迅速に折り返しのご連絡をさせていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
ひなぎく心理ルーム
岸田美保
]]>当ルームは、精神分析の理論を用いた週1回〜3回の頻度での精神分析的心理療法と、
不登校児童・生徒の親御さんに対して精神分析の理論を活用した見立てをもとに、
子どもさんとのかかわり方への具体的な提言を行っています。
ここでは、ご本人さんを対象とした精神分析的心理療法での、
当ルームにおける唯一の目的ともいえる、
来室されるかたのこころを知っていく作業について、その意義の一端をお伝えいたします。
来室を考えておられる方には、来室を考えるにいたる動機が存在することと思います。
その動機は、苦しさ・生きづらさ・困り・混乱・不安…というこころのことと思いますが、
実際に面接を求めるのがどのようなタイミングとなるのかということについては、
現実的な喪失体験や休業・休職、うつをはじめとする症状の顕在化などが、
来室の引き金になるのかもしれません。
昔からずっと生きることが苦しい、という慢性的な生きづらさであるなら、
そのタイミングは一歩を踏み出す勇気にかかっていることかもしれません。
何かのきっかけを有す場合には、
今、切実に感じられている困りごとの改善が望まれることと思います。
その、今、切実に感じられている困りごとのみの改善でいいのだ!というかたは、
その改善に一直線に進むことを目的とするような心理療法がより良いかもしれません。
精神分析的心理療法のように面接の期間を決めずに、
自由連想法という自分の思うことをなんでも言葉にする、
もしくはしないというような表現を通して、
自分を知るという取り組みをするということは、不安でしかないことかもしれません。
治療者であるわたしが、効果の保証をすることもありませんし、
精神分析的心理療法を始めるにあたっての契約書には、
自己の責任で開始して、終わるとのことが書かれています。
そのある種の不安を抱えながらも私と作業をしていくか否かは、
やはり、実際に私との面接を体験して決めていただくしかありません。
さまざまな同業のサービスを提供する施設の中から当ルームに足を運んでみようかという方は、
すでに私との間での、なにかが共鳴していることがはじまっています。
変な勧誘文句ではありません。(笑)
なにに惹かれるかということは、
それが家から近いからという物理的なことであっても意味のあるものです。
いうならば、そのような観点をもって(無意味に見えることにも実は意味がある)取り組むのが、精神分析的な作業ともいえます。
その様な観点に立つ私から来室される方に返されることばを来室される方が聞く中で、
来室される方のこころの中の何かが刺激され、何かが呼応して私との作業が進んでいきます。
こころの中が刺激をうけて動いている、どのように動いているのか、
もしくは動こうとしていることが制止されているのか、どうしてこのように動いているのか、
このようなことを私は感じつづけようとし、感じたことを言葉にしてお伝えしていきます。
こころのことが、ことばにされてやりとりされることは、
双方に負荷のかかることになりますが、
そこから発生する何かは、それまでのその方の人生にあった何かを顕在化させますし、
それまでにはなかったなにかを創造することもおこります。
このようなかかわりの結果として、
来室される方がご自身のこころを知っていくことがなされます。
実は自身が知ってほしいと思っているこころの中にある、その方の(おおよそは乳幼児期の)訴えを知ることで、今の困難が変容するとのことを、私は体験的に知っています。
目に見えないことの話なので不思議ですが、まぎれもない事実としてあることです。
このような体験が、来室される方に自覚的に認識されるまでには、
相当な個人差があることは否めませんし、数年の月日を要する作業ともなります。
現実の生活を守り営みながら、このような自分自身への取り組みを並行して行っていくことは、
大変な覚悟を要することでもあると思いますが、
それまでのこころの苦難と同等かそれ以下の苦難で、
その先の人生の色どりが大きく変わるのであれば、このことの喜びは計り知れません。
自身を知っていく作業というものは、このような体験に開かれていることなのです。
大きな期待を持たせることになってしまうかもしれませんが、
今のままでは苦しすぎるとの事実が後押しするのだろうと思います。
お立ち寄りいただきありがとうございました。
みなさまにおかれましてもどうぞお身体大切になさってください。
それではこれにて失礼いたします。
]]>
そして今晩は、4年に一度のワールドカップ、日本の初戦です。
日本も海外で活躍する選手が増えて、実力があがっているようですね。
どのような分野も、各国との交流で力を上げていくことは大切なことと思います。
さて今回は、「私の歩み」のカテゴリーで、今こころに想うことを記します。
今ですか?
はい。今です。(笑)
なので書いた後は変わっているかもしれません。
といいたいところですが、わたしはなるべく、あくまでなるべくですが、
ことばを大切にしたいと思っています。
ことばを大切にしようと思うと、
不用意なことを言ってしまわないように言葉にしないことが増えるのかもしれません。
わたしはまたこれも好みません。
となると、どうなるか…。
我ながら歯に衣着せぬ表現にドン引きすることも発生しますし、
ずっと守っていきたい大切なことば、想いもあることです。
ドン引きするような発言も、
たいていは発言の前にマッハの早さでぐるっと考えを巡らせています。
内容によっては覚悟をもって。
ちなみに今、書いていてイメージしているのは、臨床場面以外のことです。
わたしにはその生い立ちのなかに、負の経験が山ほどあって、
つきなみなことばですが、今の私にとっては、そのことが財産になっています。
私自身の分析体験と合わせて、私にはひとつのモデルがあります。
ただ、この私の負の経験と引き換えにとでもいいますか、結果として私は誇れる学歴を有していません。私が勉学にいそしむことを快く思ってくれる環境にあったなら私の正確なおつむの程がわかるのですが、それは未だなぞのままです。
それでも独学で臨床心理士の資格を取って現在にいたり、
現在においては、有り余る良い環境に身を置き研鑽が行えています。
おおよそ私とは正反対の境遇にあったであろう先生方とです。
大げさでなく、奇跡のような話です。
わたしは、私の思いに正直に誠実に歩みをすすめることしかできません。
何ら変わりない思いの中で、経験が増えていきます。
ひとは、経験が増えることで何が変わっていくのでしょうか。
変わるのだなぁと思います。
私も他者からみれば変化しているのだろうと思います。
その変化をどう感じるのか、それは本当にそれぞれの自由です。
それでも私のこころの中に変わらずにある想いを「内窓」で覆って、
象徴された表現も含めて全てを真正面から受け止めて痛みを感じるのではなく、
(それでも感じるのですが)内窓で、
温かさをたもち、騒音を低減しながら歩んでもいいんだと思う今日この頃です。
内窓は、ヒットです。(笑)
嘘なしで(私としては、ここが大事です)、事業復活支援金をもらえたので、
とりつけました。(当ルームに他県から来室する方のコロナ禍のお休みをうけて)
わたしの大切な職場環境がよくなることは本当に喜ばしいことです。
私の臨床は、来室してくださる方々との経験から学び日々更新されています。
尽きることのない学びです。
座学は私の臨床と照らして、これと思うわたしの好む理論を深めていきたいとおもっています。
どうやら、さあ、これまでのようにこれからも頑張っていきなさい。
アリの一歩でも愚直に信じて進みなさいとあらためて自身にいいたいようです。
私のブログとはいえ、まとまりのないつぶやきにお付き合いいただきありがとうございました。
それでは頑張れニッポン!で、お開きといたします。
お立ち寄りいただきありがとうございました。
京都でも第8波の入口が宣言されました。
みなさまにおかれましても、お身体大切になさってくださいませ。
]]>
今回は、当ルームの提供する精神分析的心理療法について、
わたしの思うところを少し記してみたいと思います。
そのテーマを、ひとりで考えることの限界としてみました。
ひとのこころには意識することができない無意識と呼ばれる
領域が存在するとのことが、精神分析では大前提となっています。
精神分析云々でなくとも、無意識に○○してしまった!などと、
日常会話のなかでも無意識ということばをみみにすることがあるのではないでしょうか。
はじめは意識的にとりくむことも、
そのうち意識しなくともできるようになるということは、日常のなかにもたくさんあります。
こころのことも日常の諸々のことと同じく、
少々あたまを悩ませることがあっても、時間の経過によって程よく、
考えないようになるならよいのですが…。
考えていることで、しばらくのあいだこころが苦しくとも、
そうこうしているうちにその苦境を乗り越えるような感覚がもてたり、
新たな着想にたどりつきこころが楽になるならそれはそれで大変意義のあることといえます。
意義ある感じに思えるときもあるけれど、とにかくぐるぐると考え続けていて、
それも何年も…、というかずっと、というかたがおられるなら、
そうであるなら、そこにはこころが悲鳴を上げている側面があるのではないでしょうか。
考え続けていて、実はたしかに結構くるしいけれど、
こんなこと他人には絶対分かるはずはないから、話す勇気はもてない。
そうおもわれるかもしれません。
たしかに、どの方とお会いしても、わたしが直ぐに、
その方のことを理解できると言うことなどあり得ません。
ひとのこころは複雑です。
複雑にすることで生き抜いてこれたともいえますし、
複雑になりすぎて自身のこころが手に余るという事態も起こってくることになります。
わたしはときにお母さんが幼子のこころを理解するために言葉を尽くすように、
来室される方のこころのことについて私のこころをつかって、
私のこころに思い浮かんだことをお伝えしたりします。
その様なことを繰返しながら、来室してくださる方のこころを認識していきます。
その方自身とわたしに、そのかたの意識していなかったこころの一側面が
意識されることになります。
それは、意識したくなかったことかもしれませんし、
意識してもらうことを何十年も待っていたこころの側面かもしれません。
どのような内容であるにせよ、認識されたこころの内面にあった思いは、
認識してもらえたことで満たされるようです。
このような作業をひとりで行うには限界があります。
限界を感じている方は、考えて、考えて、考え抜いてきたかたなのだと思います。
それは本当に尊い作業とおもいます。
こころからそうおもいます。
お立ち寄りいただき、お読みいただきありがとうございました。
みなさまにおかれましても、体調崩されませんようお身体大切になさってください。
ありがとうございます。
]]>たいそう混乱されることになります。
その混乱のさなかでの初期対応の多くは、
感情的になって学校に行く方向で強く働きかけることになります。
それでも子どもさんが動けないとなると、その後の対応はまちまちとなっていきます。
不登校の原因が学校内でのトラブルである場合などは、
そのことへの対応がなされることで比較的速やかな復学が果たせる場合もまれにありますが、
そのほとんどは、
そう簡単にはわかりえない要因の重なりの結果として、不登校という現象が発生しています。
要因はまちまちではありますが、子どもさんにとって必要なこころの栄養を
効率的に親御さんから子どもさんにそそぎこんでいただくことにより、
不登校の改善のみならずこころの進展・成長をもたらすことが可能です。
それは、子どもさんのこころへの理解がふかまることでもあります。
当ルームでは、直接こどもさんにお会いするのではなく、
親御さんからのお話を通して子どもさんのこころを見立て、
一週間の間に子どもさんにどのように関わっていくことが良いかを、お伝えします。
もちろん、子どもさんにお会いすることも致しますが、
外部の他者に会うことを子どもさんが良しとしないなら、
それは、親御さんとの関わりを子どもさんが望んでいる証拠ともいえます。
不登校という事態に積極的にむきあうことは、脱皮を繰り返すような体験となります。
それは、たいへん意義のある体験です。
しかしどのような方向に向かって、どのような内容を子どもに伝えればよいのか、
わからない。
不登校という事態に、お手上げ状態となることは、無理もないことです。
困った事態を何とかいい方向に向かわせたいとのお気持ちを聞かせてください。
具体的にどのようにかかわればよいか、どのような社会資源の利用ができるかなども含めて、
向かう方向をお伝えいたします。
お問い合わせをお持ちしております。
いつもお立ち寄りいただきありがとうございます。
みなさまにおかれましても、体調など崩されませんようご自愛くださいませ。
]]>本日は、お知らせです。
わざわざお知らせの必要はないことかもしれませんが、
わたしの喜びもおおきいものですのでアップの次第です。
当ルームは、賃貸マンションの一室を使用して相談業務を行っております。
家主さんにはその始めから相談室としての使用を認めてもらい今までお世話になっています。
住環境や更新に関することなどは、管理会社を通してやりとりすることですが、
この9月から管理会社が変更(私が18年前に入居してからは4社目)となりました。
この管理会社はとても良い管理会社であると以前から知っていた私は、
賃貸では通常あり得ない「内窓」の設置を打診しました。
これがありがたいことに(退去時は原状復帰をするとお約束して)あっさりOKとなり、
管理会社の手配業者よりも、リーズナブルに施工してくれる、
私が見つけたところでの施工も快諾をしていただき、
10月1日の土曜日に内窓がつきました。
室内が静かになり、涙がでそうなほどに感激です。
あ〜〜、静かだ。神経が休まる…。
当ルームは、片側二車線の白川通沿いにありますので、
それなりに騒音がありました。
耳はちゃんと選択してくれますが、それでも静かになればその変化は身に沁みます。
仕事にもよりゆったりと集中しやすいことです。
内省することをより行いやすい空間にできて本当にうれしいです。
涼しくなってまいりましたが、みなさまにおかれましても、
お風邪など召されませんようにご自愛くださいませ。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>そう。
のり越えたという感覚は、ある程度その意思をもって取り組むということが、
前提としてあるように思います。
それが子どもであった時代であれば、受験といわれるようなものなどは、
後にも自覚的にのりこえたと思える事柄になりやすいことなのかもしれません。
少なくとも親の意思としては良かれと思うことが前提であることでもあるでしょう。
本人にとってそれがどのような体験になったのかの個人差は大きく、
インパクトもありそうです。
また違う体験として家族という器が子どもにとって辛いものだとするなら、
その環境の中でどう生き抜いたか、そのことの自覚は容易でないことがほとんどだと思います。
その様なことにまつわる気持ちは一切取り合わないでその後の人生を歩んでいくか、
やはりどこかでそのような自身のこころを無視しきれずに、
機を待つこころもちがあるかでしょう。
今まで人生の歩みをすすめてここまで生きてきた。
それなりの人生にはなっている。
けれどもだからこそ、自分がどのように今までいきてきたのか、
ほんとうのところ自分は、どのような思いを抱えて生きているのだろうか。
実はその気持ちがわからない。
あまり覚えていない。
自身がどのように生き抜いてきたのか、そのことを細やかに理解してあげたい。
あなたにもそのような思いがどこかにあるのではないでしょうか。
と、問いかけられたりすると「不安」に感じられるかもしれません。
そう。
どのように生き抜いてきたのかなんて簡単に理解できるものではないことです。
でも理解してあげたいと思うあなたがいるのではないでしょうか。
もしそうであるならば、その理解にたどり着くことはできます。
そう信じれるので、わたしは精神分析的心理療法を生業としています。
精神分析に裏切られたと思ったことはありません。
わたしたちがどのように生き抜いてきたのか、それは今までの軌跡です。
ただ今までの軌跡は自ずとこれからの軌跡ともなり得ます。
その軌跡を知ることがこれからのあなたの軌跡を変容し、
生きる勇気をも与えるかもしれません。
今回は、いたく抽象的な記載となりました。
現実的なお話ですが、
当ルームのマンション1階にあった高級食パン屋さんが退去され、
それに伴う内装の解体工事が水曜辺りから始まり、明日で終わるようですが、
今日はひどい騒音でした。
面接のあった水・木が今日のような騒音でなくて、よかった。
お口直しのお話にはなり得ていないことと思いますが、
あまりの騒音で頭がぼ〜〜ッとなる苦、聞いていただきたかったです。
ありがとうございます。笑顔。
みなさまにおかれましても少し涼しくなって参りましたが、
体調くずされませんようご自愛くださいませ。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>
これは、今年の日本精神分析学会でのテーマの一つにあるものです。
メインのシンポジウムも「週1回の精神分析的心理療法の技法」です。
当ルームの実践と照らし合わせながら拝聴する貴重な機会となりそうです。
話を当ルームに引き寄せますが、
当ルームは18年目をむかえており、領収書は200冊を超えました。
開業臨床祝1万回というところでしょうか。
開業当初は勤務していた精神科医院から継続の患者さんのみで、
新患さんの獲得も容易でなく(今も容易とは言えませんが成り立っています)、
年数に比して面接回数は多くありませんが、百単位は1つの節目感まんさいです。
開業当社から兼業でしたが、2018年からは開業のみに専心しています。
よって300冊への到達速度ははやまることでしょう。
当ルームのつよみの一つに、精神分析的心理療法に移行(11年前)する以前から、
そうではない心理療法(あくまで私が学んできた範囲ですが)で、それなりに成り立ち、
それらの心理療法の有効性と限界に想い至っていたということがあげられます。
そのことによって、精神分析的心理療法でしかなし得ない作業の領域が、
わたしにははっきりとわかっていることです。
もちろん、精神分析的心理療法のよわみもあります。
週1回以上の来室頻度が必要なことや来室年数も幾年かを要すること、
そのことによる経済的な負担などは、よわみなのかもしれません。
ただ、そのようなことも含めてしっくりくる方が利用されるので、
広く一般のカウンセリングを想定するとよわみかもしれませんが、
よわみにはならないのかもしれません。
精神分析家ビオンは、患者/クライエントについて、
(分析を受けに)来ない人ではなく来る人なんです。といっていて、
わたしはこのビオンの発言が実はとても意義深いものだと思っています。
つまり、患者/クライエントは、特に開業の門をくぐるクライエントは、
意識的・無意識的にしっかりとしたニーズをもっていて取り組む姿勢があるということです。
ただ、そのクライエントのニーズに、
精神分析的心理療法がかなうかどうかということは重要事項といえます。
まずここで治療者の力量が問われるところだろうと思います。
続けたけれど期待した変化が得られないということはあってはなりません。
なので、当ルームで提供する精神分析的心理療法を肌で体感していただき、
はじめのほんの短い回数でちょっと求めているものと違うみたい、
ということを感じていただくことをおおいに良しと思っていることです。
それはどういうことかといえば、私の場合は特に外勤において顕著ですが、
ある程度相手に合わせながら友好的にという、自然発生的ともいえる言動を極力ひかえて、
私の提供する精神分析的心理療法をしっかりと示すということです。
うん?
今回は「研修会」のカテゴリーで書き始めたことを思い出しました。
思いきり脱線しているようです。(笑)
「週1回の精神分析的心理療法で何が達成できますか?」なんて問われた日には、
力説したくなることが山のようにあるということのようです。
研修会といえば、
所属している師の研究会での講義担当が8月にすみ肩の荷が下りたところです。
京都いのちの電話の研修委員としての活動では、
認定相談員の毎月定例の班別研修と個人SVにくわえて、
昨年度からは認定に向けた研修生のGSVの担当や、
相談員の募集に向けた一般の方への講演を依頼され、
今年度も昨年度と同じ3月21日に講演を行いGSVも担当することになりました。
それなりの成果を出し、再度依頼されると言うことは本当にうれしいことです。
昨年の講演ではビオンの「α機能」というワードを盛り込んだのですが、
今年度は「コンテイナー/コンテインド」を盛り込もうかと思っています。
一般の方に向けた講演でお勉強ではありませんので、うまく盛り込むことです。
所属する研究会での講義経験や京都いのちの電話での経験は、
私自身の利をこえて精神分析臨床の発展と、
ひいてはクライエントのこころの進展に資することにつながると考えています。
微力ながらそこにむかうことです。
右往左往の記載となりましたが、このあたりでおいとまいたします。
みなさまにおかれましてもどうぞお身体大切にお過ごしくださいませ。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>感染症対策もいたについてきたこととはいえ、感染力がつよいようで、
それに対応した新しいワクチンが行き届かないことには、
小康状態に近づけないことかも知れません。
ちなみに、私はワクチン接種3回目から5ヶ月が経過し、
それまでと同じファイザーが可能でしたので、4回目を8月19日摂取しておきました。
5回目が必要な時期には、新しいワクチンの接種が可能になっていることでしょう。
さて「迷うこころ」ありますか?とのお題としました。
みなさま、迷うことはおありでしょうか?
迷うこころがあり、それがつづき、決められなくてこころが破綻状態になるなら、
それはうつかもしれません。
迷うこころがあり、それがある程度つづいて苦しい…、でもそのうち忘れる、
もしくはどうにかこうにか決める必要があることならば決める。
迷うことは苦しい、どうしてこんなに迷うのか…。
ずいぶん前のことですが、わたしより年上の方と会食をしていて、
朝ごはんの話となり、何食べるの?と聞かれたのでわたしは、いろいろと応えました。
すると、いろいろ!!と、声を高めていたく驚かれました。
そのかたは、あさ食すものは決まっているとのことで、
それを決めていないわたしにおどろかれたことでした。
たしかに、明日の朝ごはんは何にしようか?と前の晩に毎日考えるわけです。
無駄なエネルギーを使っているのかもしれない。
そう、決めてしまえば迷うことはない。
う〜〜む。
でも、わたしの気持ちが何を望むのか、私の身体さんが何を望むのかききたい。
この迷いは、日常の些細な出来事のなかの迷いではあります。
迷うことなく決めることは決めて、
迷うことや葛藤なしに日常を送ることができるならそれもよいと思います。
でもずっとこころのどこかで、ずっとずっと迷って悩んでいる自分がいる。
それは今に始まったことではなく、もうずっとなんです・・・。
でもどうしてその迷いというか、すっきりしない何かかあるのかその理由はわからない。
そのような思いがあることには相応の理由があります。
相応のあなたの歴史があることです。
そのあなたのこころの軌跡・歴史を知っていく作業を始めてみることを検討してみてください。
作業を始めるかどうかは、実際に面接を数回体験してからお決めいただけます。
お問い合わせ・初回申し込みのご連絡をお待ちしております。
みなさまにおかれましてもどうぞお身体大切におすごしくださいませ。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>厳しい暑さですが、みなさまお元気でいらっしゃいますでしょうか。
明日からは、やや気温もさがり少し雨も混じるようです。
梅雨はたったの13日間でしたので、少し雨模様が恋しいほどです。
それにしても6月は暑かった…。
京都は盆地なので、梅雨の時期は湿気がたまり、身体にまとわりつくようです。
今年はそこに強烈な暑さが加わり、さながらスチームサウナ状態でした。
スチームサウナ京都(笑)は、はじめての体験でした。
それもそのはず、6月の気温では観測史上もっとも高温になったのですから。
エアコンの効いた室内は快適ですが、
今は換気が大切なので、ひとの出入りがあるとすぐに、
玄関のドアの解放に、台所の換気扇をまわし、室内の小窓もあけ、
ベランダの扉を全開(網戸あり)します。
ワンルームの室内は、あっという間に風が通って換気完了!!
そうすると当然のことながら(室内にある3つの時計のうち)、
2つのデジタル時計の温度・湿度計の数値は、上がります。
仕方がないです。
また「ご〜〜〜ッ」と、急冷です。
室内換気後の6月の湿度計は、70%を超えていることもしばしばでした。
「え〜〜〜」と、言いながら少し笑って、ドアノブ拭いて、
テーブル拭いて、そのほかもろもろの準備をととのえ、次の方をお迎えします。
そんな6月でした。
スチームサウナ京都、なにかのチームの名前みたいですね。
(笑)
たわいないお話でした。
それでは、みなさまにおかれましてもくれぐれもご自愛ください。
いつもおたちよりいただき、ありがとうございます。
]]>と閉口しても、皆に平等にながれる時なので、不満のもっていきどころはありません。(笑)
よく考えてみると…不満があるわけではなく…、
時間がいくらあっても足りないということのようです。あっ、やはり不満ですね…。(笑)
さて、広報をいたします。
当ルームは、岸田美保の個人オフィスというかたちをとり、
精神分析の対象関係論に根差した心理療法を提供しています。
当ルームでは、生きづらさを抱えた方への精神分析的心理療法と、
不登校になっている子どもさんの成長と進展を目的にした、
保護者の方へのコンサルテーションのふたつをおもに提供しています。
このふたつの作業の中で精神分析の理論が活かされています。
(専門家の方への提供メニューにももちろん当てはまります)
ただ、私がそれぞれの方とお会いする中で精神分析の理論をどのように生かすかには、
実は違いがあることです。
大きな違いには、心理療法とコンサルテーションという設定の違いからくるものがあります。
私のこころの中でおりなされる精神分析の理論を生かす細部の動きは、
その方との間で私のこころに感じられた何かから発せられる、私のことばによる表現の違いに表されます。私がその内容を伝えるときも、その瞬間である場合もあれば、数年後であることもあります。
また、私がその面接空間の中での何かを感じることそのものに意義があって、
それを伝えることには意義がないことであれば、伝えないこともあることです。
面接場面でのこれらの私の言動は、私が好んでいる理論と私の個人分析体験、
その双方への私の親和性が、私の臨床にとけこんだ結果であるのだろうと思います。
そして、このような私と数年にわたる作業をするかどうかは、
私との面接を何度か体験していただき、来談者の方にお決めいただくことになります。
私の方から、受付を経て初回を迎えた方をお断りすることはありません。
皆様からのお問い合わせ、お申し込みをお待ちしております。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
皆様におかれましてもくれぐれもご自愛くださいませ。
]]>こころに想うことについて、今、改めて思うことをつぶやきます。
私は幼少期から外で活発に遊ぶことの多い子どもでした。
小学生のある時期は、リレーが流行っていて学校が休みの日には、
朝から晩まで一日中組み合わせを変えては走っていました。
そんな私でしたが、人の顔色や気持ちをうかがうことも盛んに行っている子供でした。
それは、周囲の大人の目に「しっかりしている子」と映ることにもつながっていたようで、
近所の若いお母さんが買い物に行くときに私を見かけると必ずといってよい程、
乳児やハイハイする幼子の子守を私に託すことにも表れていました。
その当時は、赤ちゃんが可愛いいと思うだけの私で、何とも思っていませんでしたが、
今から思うと小学校低学年にしてなんと信頼されていたのかと汗がでます。(笑)
子どもではなく大人では、母親の気持ちや顔色を見ていた私でした。
それは自ずと周囲の人たちのこころ模様に関心を向けることにつながり、
私は他者の体調の悪さやこころの不穏を感じとるようになりました。
しかしそれは、私自身のこころが消耗するだけとの気づきに至り、
十代で会社員は無理な私であろうと結論していました。
ここで何をお伝えしたいのかと申しますと、
私は私のこころに感じていることや、
私自身のことについて私がどう思っているのかなどを、
時には身内に、時には友人、知人を相手に言葉にしてきたと言うことです。
そして、相手に対して連想したことなどを伝えることもよく行い、
思い違いを修正することも頻回にありましたし、相談を受けた私が思うことを伝えた結果、
「なんでわかるの」といわれることもよくありました。
つまり私のこころで想うことを、関係性があり可能であれば、
諸々、相手に伝えて、私のこころに想われていることと、
その話相手が感じていることや思っていることとの照合を、私は日常的に行ってきたのです。
これって結構へんなことといいますか、あまりしないことだと思います。
なぜなら聞いた相手が私のことをどのような思うのかということを考慮に入れると、
また違う言い方をするなら、
私が思われたいように、相手に思わせたいなら大きなリスクがあることだからです。
そういった点では、私は他者にどのように思われてもよいと思っています。
それは人それぞれに、どう思うか、どう感じるかは自由だと思うからです。
そう思えるとのことは、私のこころが自由でもあることです。
ただ自由であるからといって終始お気楽かといえば全くそうではありません。(笑)
他者が私のことをどう思うのかと言うことも普通に気になります。
とりとめもなくまとまりもなく、5月は一回しかアップできていないから、
との思いからこのような記載となりました。
昨日・今日の京都は猛烈に暑くなりました。
今は、涼しさを運ぶ雨模様です。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
体調管理も大変ですが、皆さまにおかれましてもどうぞご自愛くださいませ。
それではこれにて失礼いたします。
]]>今回は「私の歩み」のカテゴリーで、
私が精神分析の理論に傾倒する訳を考えてみたいと思います。
考えるといっても気楽に私が何を書くのかを見てみます!とのことです。
私が精神分析の理論ではなく、精神分析(の実践)そのものに出会ったのは、
今から11年前位です。
理論の勉強はもっともっと前から行っていたのですが、
それを自身の臨床に生かそうと思うには至っていませんでした。
開業は2005年から行っていましたので、対象関係論を軸とする精神分析的心理療法を提供するまでは、それまで私が学んできた来談者中心療法やユング心理学、トランスパーソナル心理学、
ゲシュタルト心理学、精神分析の対人関係論と自我心理学、などをミックスした、
いわば折衷的な心理療法を提供していたといえます。
私は、折衷的であることに物足りなさを感じていましたし、
なんといっても私が提供する心理療法のある種の限界を感じていました。
とはいえ、来室くださる方はそれなりに満足されていて、
ずっと通い続けたいと思って、それぞれの方にとって無理のない頻度が選択されていました。
私が満足できない一番の理由であったことは、
私とのいい関係を維持することで、
その方のこころの奥にあるネガティブなものを扱うことが皆無のようだと言うことでした。
精神障害者の作業所や精神科医院に勤務していたころには、
いやおうなくネガティブな側面への対応を迫られることはありましたが、
こと自身で行う開業となれば、いい関係を維持しながら心理療法を進めることが、
必須のことであるかのように振る舞う私でした。
当時は当時でそれが最善でしたし、このことが特に間違っていたとも思いません。
しかし現在私は、その方がその方の本当に困った関係性を、
私との間で立ち上げる形で私を利用することが出来るなら、
そのような関係の中でその方がどのように生き抜いてきたのかを、
今現在のその方と私とで再認識するような作業を通して、
深くその方自身を理解し直し、それまでとは違った人生が始まる道を選択しました。
この道はでこぼこ道です。
いや、でこぼこ道ですらなく、大海原に行くあてなく漕ぎ出した小舟ともいえる程です。
ただそれでも漕ぎ続ければ必ずどこかにたどり着くのです。
こう思えるのは、私の人生が意図せぬご縁でここまでなるようになった、
というモデルがあることや、常にはるか遠くであっても私には先にある光が見えるからです。
その光は、求めて取り組むことで必ず近づいてくるのです。
その光は、その方が何を感じて生きてきたのかということをその方が知るということにつながる光です。
それまでの折衷的な心理療法は、その方が面接に来ないより来ていた方がいいみたい、
ということがすべてであり、それ以上でも以下でもなかったことです。
自分を知ってどうなるの?
と皮肉めいて思ってみても、私との作業の継続はその光に向かうことしかしません。
その光に近づいたときの感動は言葉では言い尽くせません。
この感動は、それまでの心理療法では全く感じたこともない類のものです。
感動するのは、それほどに二人の「苦悩」の歩みがある故なのです。
その感動は私の方だけに先行して感じられることもしばしばあります。
その方のこころの変化をその方自身が感じるまでには相当な個人差があるのもまた事実です。
とりとめもなく書いてみましたが、
私は、大人になった方が、改めて自身のこころの成長を感じて、
その方の人生が終わるまでこころの成長を続けられる理論を知り、
その実践に従事している実感を得ています。
なので精進しながらその実感を学びの中で形にして磨きをかけていきたいと思うのです。
なんだか、さっくりあっさり書きたいと思っていたのに、濃いですね。(笑)
悪しからずです。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
それでは、朝晩は少し寒く感じる今日この頃ですが、
皆様も体調崩されませんようお大事になさってください。
]]>すべての方の面接を担当する個人オフィスという形態をとっています。
何をブログの題材にするかによって想定する読者に違いがあることですが、
来室をご検討くださっている方の選択の一助にしていただければと思います。
来室をご検討くださっている方は、当ルームが提供する内容に照らせば、
ご相談を目的とするご本人さま、子どもさんの相談を目的とする保護者の方、
研鑽を目的とする専門家の方、その他の方々、に分けることが出来るかと思います。
私のこれまでの臨床経験では子どもさんに関わることが多くありましたが、
子どもさんに関係する大人の方にも同時にお会いすることが少なくありませんでした。
とくに教育現場では、子どもさんの保護者や教職員の方に子どもさんの気持ちを尊重しながら、その仲を取り持つような働きをすることが繰り返されることでした。
週1回非常勤で10年務めた大阪にある相談室では、すべて成人の方でした。
そして現在、当ルームにおいては成人の方のみとお会いすることですが、
子どもさんに関わってきた臨床経験が当ルームの提供する内容に、
大きく反映されています。
それはどういうことかといえば、
精神分析的心理療法を提供する成人の方へは、その方がおぎゃーと産まれてから、
今までの人生の中で少しずつ積み重なった生きづらさを私が想う時、
お話の内容によっては、乳幼児期・児童期・思春期・青年期などその時々のことを、
ある程度、専門的な視点で思い巡らせることができ、それはとても役立つことになります。
違う言い方をすれば、それらの子ども時代のことが、今もなを息づいていることだからです。
不登校のご相談をはじめ、子どもさんのことにまつわる保護者の方からのご相談には、
ご依頼があり子どもさんに数回お会いすることもなくはないですが、
直接子どもさんにお会いしなくとも、
保護者の方のお話から子どもさんを見立てることが可能であり、
子どもさんのこころが本当のところどのようであるかは、
親御さんに関わっていただく中ではっきりと見えてくることです。
全ての人が子ども時代を経験していることですが、
それはまったく異なった経験です。
少なくとも家のなかのことは、外からはうかがい知れません。
そして当の本人も、その家の中の違和感を違和感として保持することが、
さまざまなこころの事情から困難を極めると判断するともなく判断したときには、
そのこころの健康を守るためにこころの奥にしまい込むことが余儀なくされます。
しまい込まれた何かを、そのままにしておくことに違和を感じている方や、
そのことを含めて自分の人生の全てを受け入れた上で、
よりのびのびと、今とこれからを生きたい方が、
こころの作業を始めれらるのだと思います。
そのような作業をしなくてもよいとお考えであれば、
それはそれで良いことと思います。
それでもなをご自身のこころに向き合う作業を選択されるなら、
その作業を終えた後も自身のこころが更新されて行くことを感じながらの日々となることです。
当ルームでは、そのような日々となるための有意義な作業空間を提供し、
私との忌憚ない相互交流のなかでその方のペースに沿いながら作業を進めていきます。
少なくない労力と出費が必要な作業となり、
精神分析的心理療法においては、年単位での取り組みとなることです。
そのような取組をされるかどうかは、
実際に私との面接を数回体験していただいた後に決めていただくことです。
まずはお気軽にお問い合わせください。
GW中もお問い合わせ、初回お申込みについては対応させていただきます。
寒暖差によって、または日々のご多忙によって、
このまとまったお休みにお疲れが出てしまう方もおられるかも知れません。
3年ぶりの外出制限なしの長期休暇に遠出されるかたもおられることと思います。
皆様におかれましてもどうぞお身体大切にされながら有意義なお休みをお過ごしください。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
それではこれにて失礼いたします。
]]>このセミナーは日本精神分析学会認定のもので、
主催者は精神分析家である松木邦裕先生(日本精神分析協会会長・京都大学名誉教授)です。
受講者は、精神分析の理論を軸に臨床を行う先生方で固定メンバーです。
精神分析の理論を臨床に生かそうとする先生方は、
臨床のみならず座学での学び(自主的に行う論文作成なども)にも熱心です。
臨床心理士に関しては、その資格を取得してからも、
継続的な研鑽を重ねることが義務付けられており、
5年に一回、研鑽をポイントに換算して一定水準をクリアしないと資格の更新ができません。
わたしですら、いつもこの必要ポイントの3倍は有していることです。
私が現在、毎月継続的に参加する定例研修会はこのセミナーのみです。
松木邦裕先生が日本において中心的にビオンの理論を紹介してくださり、
私はビオンが提示する理論を最も好んでいますので、
(セミナーの内容は精神分析全般に渡りますが)
このセミナーでの学びを深めることに専心しています。
座学で蓄えられた知識に偏らず、
もっとも臨床的な視点を松木先生が提供してくださることもこのセミナーの魅力です。
参加されている先生方の年齢も幅広く臨床の拠点もまちまちなので、
そのコメントもさまざまとなります。
同じ山を見ていても、どの角度から見るのか、その山に何を感じるのか、
どのようにしてその山にのぼるのか、登るにはどのルートがあると考えるのか、
などなど違うのです。
結果としてのもろもろの定義(学派など)は先達により示されているのですが、
それに見合う好ましい臨床結果に向かうために臨床の中の何に着目するのかが違うのです。
当たり前のことを書いているにすぎませんが、
精神分析があらゆる心理(精神)療法の中で、
もっとも治療者のパーソナルな何かを使用する学問であることを考えると、
その認識が多岐にわたることは必至なのでしょう。
ゆえに奥が深く難しく難題が山積していることです。
「四十、五十は、はなたれ小僧、六十、七十働き盛り、九十が来て迎えが来たら、
百まで待てと追い返せ」渋沢栄一の格言ですが、
精神分析のコミュニティにいると、まだ私は、はなたれ小僧だ…良かった…と思います。
これが一番言いたかったことです。(笑)
そして面接の中で臨床家が知らないといけないことは、座学の中にはありません。
それは臨床の場にしかないことは、ビオンが述べていることです。
とはいえ、臨床で培われた経験から推論される言明には価値があり、
その内容を通しておのおの、自身の臨床の吟味が行えます。
よって、座学も欠くことのできない貴重な研鑽の場となります。
でも、本当に見解(見立て)が違うのです…。
それを見越してか、松木先生はメンバーに、ある精神分析の定義について、
各人の認識を問うてくださる内容を提示してくださいました。
それを考えるのがこの上なく楽しい私を感じるとき、私は出会えていると思うのです。
とにもかくにも、私にとっての座学は私のもとを訪れてくださる方に還元されるべきものです。
座学と臨床をつなぐことが出来なければ座学の意味はないと思います。
はなたれ小僧の域を出る頃には、座学と臨床をつなぐ言葉をより発信できればと思います。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
皆さまにおかれましてもどうぞお身体大切にご自愛くださいませ。
]]>4月、新しい学年となりました。
不登校であったお子様が、学校に通いはじめた。
または通い始めることが叶わなかった。
安堵や落胆に葛藤、さまざまな思いをお感じになっていることと思います。
通い始めることが出来た、またはできなかった。
それぞれそのようになった背景には、それぞれの要因を見て取ることが可能です。
「不登校の原因探しをしても仕方がない、時が解決する」とのことはよく耳にしますし、
そのように考え、時期を待つという見解を軸とする専門家も多いと思います。
子どもは成長します。
年を重ねるという意味においては必ず成長します。
なので、そのお子様が成長されてお子様自身の「こころの力」がつくことで、
いうならば自力で自分の置かれた状況を変容し目に見える進展を遂げていかれます。
その動きが、いつ発生するのか、
おおよそ学業に携わる年齢でその動きが発生しない場合は、
ひきこもりと称する状態に入っていくことになります。
ひきこもりの状態からそのときが来れば動き出す人もいるでしょう。
不登校という状態は、そのお子様のみならず、
そのお子様を抱えるご家族も大きなストレスを抱えて疲弊することになります。
しかしここには、実りある変容を遂げることができる素材が横たわっています。
年齢が低い程、その変容を遂げることのできる素材へのアクサスは容易です。
再登校も速やかです。
先に書いたようにお子様自身の成長を待つという方法もありますが、
親御さんをとおして、お子様にとって有意義なかかわりをしていただくことで、
お子様の成長が促進される、もしくはお子様の重荷が軽くなるなどの対応が可能です。
その結果、再登校、復学などがかないます。
再登校などの進展が得られない間は、取り組むべき課題があることです。
それは取り組むに値する意義ある課題です。
それがどういうものなのかは、当然ながらまちまちです。
それを私が親御さんの言明と子どもさんの状態から導き言葉して、
それを聞いた親御さんの感覚(印象)が、妥当性を同定します。
子どもさんの状態を案じておられる親御さんには、
子どもさんのことにまつわる情報がこころの中に蓄積されています。
なので、私がお伝えする子どもさんへの見立てが正か否か直ぐに導くことが可能なのです。
このような取組は、子どもさん、親御さん双方のこころをそれまでよりも豊かにします。
豊かになるに要する時間はまちまちですが、間違いなく取り組むに値し、
その時期に身につけていい、子どもさんの「こころの力」を、
速やかにつけていただく方向で取り組みます。
不登校という状態は、それまでよりもこころを豊かにすることが出来る機会を、
分かりやすく提示してくれている現象であると、私は考えています。
親御さんの協力があれば、
子どもさんの成長(進展)までの期間を大幅に短縮することができるのです。
喜びを分かちあえる日まで、意義ある取り組みの提供をお約束いたします。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
皆様におかれましてもどうぞお身体大切になさってください。
]]>と申しましても、ご相談者に直にお尋ねするものでもありませんので、
私自身の体験を軸にお伝えすることにいたします。
カウチ(寝椅子(当ルームはベッドを使用))に横になると、
ご相談者の視界からは私が見えなくなるという事実があります。
このことがどう体験されているのかは、まちまちなのだろうと思いますが、
私がカウチによる個人分析を受けたときには、
治療者の様子を視覚レベルでは捉えることが出来ないので、
その分、治療者に余計な気や神経を使わなくてすみました。
とはいえ、
治療者の存在に全く気を向けていないかというとそうでもなくて、
赤子が親の居場所を必死で感じとろうとするような感覚を、
私は機能させている側面があったように思います。
このことは、私がカウチによる分析を受けたいと思う動機とも関係しました。
私の動機はカウチを使用した個人分析のなかで十分に扱われました。
カウチでの臨床は、自分のこころを自分のペースでじっくりと、
見つめ、扱うことを可能にします。
こころの中にある思いを汲み取ろうとするとき、
おひとりおひとりに必要な「間」があり、それはとても必要なものでもあります。
その間を無理なくあつらえることが出来てしまうのもカウチの魅力です。
総じて人は沈黙や「間」を嫌う傾向にありますが、
カウチを使ったこころの作業においては、自由に語るとき語らない時が入り混じるものです。
当ルームでカウチを使用し始めて、この10月で10年となります。
この10年の学びから私は、
椅子を使用した面接においてもカウチの利点を取り入れることをしています。
ちなみに、椅子を使用するか、カウチを使用するかは、私が決めることではなく、
実際に何度か体験していただいてから、決めていただいているのですが、
殆どの方がカウチを選択されます。
私が良いと想いっていることも関係するのかもしれませんが、
良いと感じるからこそ選択されるのだろうとも思います。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>わたしの無意識を活用することにカウチが役に立つと考えているとお伝えしました。
まず無意識は、意識できない領域であり無い意識なのにどうやって使うのかとの
ごもっともな思いが浮かばれることと思います。
無意識は無意識です。はい。
ですが、私たちには考えが思い浮かぶと言うことがあるのではないでしょうか?
考えが思い浮かぶまでではないけれど、
何だか嫌な感じ…などの言葉にできない感覚は皆さまも体験されていると思います。
この感覚をすべて、こころとは関係ないところに結び付けて理解することも可能ですが、
そのようなタイプの方がこのブログを目にされていることはないかと思いますので、
すすめます。(笑)
意識的に覚えたことを思い出すということではなく(要説明ですがまたの機会に)、
オリジナルなある局面に相対した時や遭遇したとき、
何がしかの言動が導かれるように浮上しそれを言う、行うなどの表現をする、
もしくは、意識するのみで動かない、動けない、
または、無かったこと、見なかったことにする、一瞬寝る、などします。
つまりこれは、私たちがその状況から感じとったこころの何かと、
その状況との整合性をその人が瞬時に判断して何らかの対応をしているといえます。
このような他者からの刺激を受けて反応することそのものがストレスな場合は、
そもそも他者をなるべく見ない(認識しない)と言うこともあるでしょう。
すべてのことがわざわざ意識を通し、意識的な判断のもとに動いているものではありません。
何かの刺激に対してそうなってしまう、気がついてはいなかったけれどそうしていた。
気がついていないのにそうしていた…においては、
本人は指摘されなければ自覚することはほぼないことなのかもしれません。
ひととの関わりで神経質に感じとりすぎるなら、
そのことそのものがこころが疲弊することですし、
程よくスルー出来ることはとても健康的であり大切なことです。
前置きが長くなりましたが、
わたしがカウチの利用をするときには、
私のこころはオープンにご相談者の言動を感じ取る状態になっているといえます。
この状態はある種とてもリラックスしていて、かつデリケートなものです。
この私のこころの状態は、私がその場で感じていることに存分に触れる、
浸ることを許容します。
そして、そうしているうちに何がが言葉となって浮上することもあれば、
感じ続けるのみで時間がすぎてゆくとき、
感じている何かを素材として言葉のやりとりをするとき、などが繰り返されます。
これらの私のこころの動きや感覚は、重複して存在することが殆どです。
つまり、こころをオープンにしてその空間での何かを感じ取ることの中で、
その情報をストレートに無意識に送り込み、無意識から浮上する何かを意識でキャッチして、
それを素材として面接に活用するのです。
あえて言葉で表現するならこのような記載となりました。
先のメールに面接後の鼻歌のお話をしましたが、
これは面接後に感じた無意識からの情報ですが、
実際の面接に無意識が有効に力を貸してくれるとは、
面接の時間内で私の意識が無意識から浮上するのもを捉え意識化してご相談者に伝わることばで、内容によってはその伝えるタイミングを考えて作業が成されることです。
無意識にあるその方の気持ちを知っていく作業は、とてもデリケートなものです。
なので、私のこころもそれに見合った状態で機能していることです。
なので、当ルームでは、私の作り笑いや過度な愛想に出会うことはできません。
ふたりの真摯な作業にそれらは不要と考えています。
カウチ(寝椅子)使用について私の側のこころについて記してみました。
次回はご相談者のカウチ使用に想像を膨らませてみようと思います。
➂? はい。(笑)
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>わたしはこのように自分の表現についても注意を向けて楽しみ、
ときにその表現は、わたしに色々なことを教えてくれます。
面接を終えた後に換気や消毒、カウチのメイキング等を行いながら、
鼻歌が漏れることがあります。
わたしはその鼻歌をしばし口ずさみながら「なんだ?」と思います。
そして「え〜〜そういうことか!」と思います。
どういうこと?
すみません。どういうことかは記載できませんが、
つまりそれは、私の無意識に選択されたその鼻歌は、
面接で私が無意識に感じとったことのなにかを、わたしに教えてくれているのです。
病気ではありません(笑)
それが私の仕事です。
厳密にいうならそれは、私の無意識が働いてくれている領域からの、
わたしへのメッセージです。
精神分析では<Freud(フロイト)>治療者の無意識を患者の無意識に差し向けて作業をなす、
という言明に治療者の治療姿勢についての起源があり、それは今に至っても息づいています。
あらゆる仕事、特に何かの職人さんを想像していただければお分かりかと思いますが、
意識的に鍛錬してきたことが、
そのうち意識しなくともできるようになり際限なく磨かれていきます。
精神分析的な心理(精神)療法で治療者の無意識を活用するとするなら、
意識的に利用できる「知識」が精神分析の仕事を害するとのことを、
後のビオンが言及したことは合点のいく話となります。
<私はこれらのことを2011年より松木邦裕先生のもとで学んでいます>
この治療者の無意識を活用することにカウチ(寝椅子)は役に立つと、私は考えています。
突然話は変わりますが、
当ルームを知っていただく広報を目的としてブログを利用するなら、
(そもそもそのような意図での設置です)、
頻回のアップをすすめられたので、カウチ使用についての入口についたところですが、
つづきは明日といたします。
なんだか勿体をつけているようで罪悪感を感じなくもないですが、
悪しからずご了承くださいませ。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>一部ご説明しています。
(子どもさんの不登校のご相談等でお見えになった親御さんには行わないものです)
精神分析がその他のあらゆる心理療法と違っているのは、
「無意識」という意識することや自覚することのできないこころの領域の
存在を仮定していることです。
私たちは日常の生活の中でさまざまな刺激を受けながら生活していますが、
そのすべてを自覚するものではありません。
自覚的、意識的に感じられる不快な出来事は速やかに忘れることができるなら、
こころはそのように機能します。
これは健全なこころの在りようと言えます。
そしてときにひとはその人にとって楽しい時間をもうけて、
こころのリフレッシュをはかるなどします。
そしてまたストレスを受けながらの日常を営みます。
しかしそのストレスが大きかったり長期にわたり被るようなものであるなら、
こころは悲鳴をあげます。
こころを氷山の一角に例えます。
海面に出ている部分は5%ほどでそこを「意識」と考えます。
海面下にある95%を「無意識」と考えます。
この無意識に解消しきれないストレスが一定溜まると海面下から意識に向かって、
ドンドンどんどんとノックをしながら、
「もういい加減にして!」と無意識が文句を言うようです。
その文句が意識ではコントロールできない「状態」や「症状」と考えるのです。
意識でちゃんと分かってあげないで無視しているので、
それを担わされた無意識が怒っていると考えます。
当ルームで提供する精神分析的心理療法では、症状をとることを目ざすことはありません。
その方の意識できていないこころにどんな思いがあるのかを知っていくとりくみをします。
無意識の領域にある意識できていないご相談者の気持ちを、
分かっていくことに向かいます。
これは簡単なことではありません。
なぜなら分かると、自覚すると、
ストレスがかかるかもしれないので、分からないところに置いているからです。
それでも分かってあげる方向に進めていきます。
分かるのは怖かったけれどわかると、分かってもらえた「無意識」にあった気持ちは、
喜びます。
喜んだ結果、意識にドンドンドンドンと訴える必要がなくなります。
生きづらさの改善が気づけばそこにあります。
それまでと周囲の状況や環境が仮に変わっていなくとも、
ご相談者のこころの理解が深まることでご相談者の感じ方が変化することです。
この無意識の存在を肯定して、
分かってあげきれていない気持ちを分かってあげることを私とご相談者とで成していきます。
決して平たんな道のりではありませんが、
ご相談者の「無意識」がその必要を感じるなら、
「意識」は無意識にある気持ちを知るべく進むのです。
どうやらそのようです。
その人にしかわからない、その人の歴史の中にしかない唯一無二の気持ちに出会うことです。
初回にご説明する内容から少し入り組んだ話にもなってしまいました。
次回は、カウチ(寝椅子)の利用について少し触れてみたいと思います。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
本日の京都は快晴で桜もきれいでした。
]]>
精神分析的なコンサルテーションを受けていただくための初回について記載します。
電話にて受付をして、書面を送付させていただき、
初回の面接までに「心理問診票」をご返送いただきお会いすることになります。
初回の面接では、すでに思い描いている疑問や問いがあればそのことをお聞きします。
とくにないようであれば、
心理問診票に記載されたことについて事実関係を中心にお聞きしていきます。
お聞きすることの内容は、私のこころの中から外部に漏れることは一切なく、
守秘は守られます。紹介者や家族からの問い合わせにも一切お応えすることはありません。
精神分析的な心理療法では、相性がとても大切になってきます。
どうして相性が大事になるかといえば、その方のパーソナルなこころを、
扱っていくとてもデリケートな作業となる故です。
男性と女性であれば誰とでもカップルになれるというものではないことと、
似ています。初めてのお見合いと言えるようなものです。
初回の決められた時間が終わりに近づくと次回面接のお約束をするかどうか、
その選択が必要となります。
初回のお見合いの印象では次回を決めがたいときは、
また改めて必要と思えば連絡をもらうと言うことで保留にしていただくことが無難です。
そのまま終了と言うこともありです。
わたしから「2回目はどうですか?」などとご連絡することはありません。
初回では事実関係などお聞きすることで時間が使われてしまうことがほとんどなので、
実際に精神分析的な心理療法がどのようなものかを2回目(50分)に体験していただきます。
初回の普通のやりとりでことばをかわすことと、
精神分析的心理療法の言葉のやりとりは異なるものです。
どちらも日本語ですし、ご相談者の方の語りは同じかもしれませんが、
私の方のことばの返しは、自ずと違うものに変化します。
初回で重要なことの一つに、私からなされる精神分析についての簡単な説明があります。
そのご説明について、次回(明日の予定)は記載したいと思います。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
京都の桜も美しく満開ですが、花冷えです。
皆さまもご体調くずされませんように。
]]>
何回かに分けてお伝えしていきたいと思います。
ひなぎく心理ルームに関心を持っていただいた方や初回の申込をされたい方は、
HP右上の「お問い合わせ」からご連絡いただくか、075‐722‐9022までお電話ください。
お電話の場合、面接中並びに席を外しているときは留守番電話対応となっております。
その際は、お名前とご連絡先を残していただければこちらから折り返しご連絡いたします。
「お問い合わせ」からご連絡頂いた方には、まずメールにてご返信したのちに、
初回面接をご希望される方には、お電話にて日時を決めることや初回までのことについて等、
ご説明させていただきます。
お電話にて初回面接の日程が決まれば、
当ルームより諸々の書面をご自宅に送付させていただきます。
その中に「心理問診票」があり、それに可能な範囲でご記入いただき、
初回面接の前日までに、ご返送(書類の紛失を避けるために速達で)いただくか、
直接当ルームのポストに投函してください。
そして面接初回当日を迎えることとなります。
前もって「心理問診票」をご返送いただくことによって、
来室ご希望者の大まかなご相談内容などが把握でき、時間を有効に利用することが出来ます。
また初回90分の中で、
当ルームの精神分析的心理療法で何をしていくのかについてもご説明いたします。
つづく
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>新しい年度がスタートします。
転勤が気になる方もおられるでしょう。
自営の方はこのご時世もあり見通しが持ちにくく、
ストレスの多い日々をお過ごしのことと思います。
当ルームは、2005年に開設して4月からは18年目に入ります。
勤務していた医療機関の閉院状態を受けて継続面接の場所として構えたことに始まり、
あれよあれよという間にここまで来ました。
来談者中心療法と子どもへのカウンセリング、
それに、EAP(企業の方へのカウンセリング)の提供を加え始めの7年が過ぎました。
そのころにようやく経費と収入がとんとんになった時期でもありました。
その後、2012年からカウチを導入して、精神分析的心理療法の提供を開始しました。
お会いする頻度も、精神分析的心理療法に合わせる形で、
週1回以上の頻度に変更していきました。
現在は、精神分析的心理療法を軸に提供しながら、
精神分析的な視点を活用して「不登校」の親御さんの支援を行っています。
決して安くない料金を頂くからには、
間違いなく効果を実感していただけるものを提供していることです。
とはいえ、精神分析的心理療法は相応の時間を要する取り組みとなりますので、
解決したい問題がはっきりしていて、
効果を早く出したいなら認知行動療法などが有効かと思います。
そうではなくて、私との関わりを持ちながらじっくりと自分のこころを見つめて、
整理していきたい、自身のこころを知っていきたい方は、
精神分析的心理療法が良いと思います。
話を聞いて欲しいという思いが強い方も向いていると思います。
来年度も私のなすことは、来室してくださる方に有意義な時間を提供できるように、
研鑽を重ねることだと思っています。
そして心身を良い状態に保ち、いい状態で耳を傾けることです。
そのために、学びを深めたいと思います。
学びの内容にわくわくしながら進んでいけるという、
この上なく有難い研鑽環境に身を置くことが出来ていることに感謝です。
皆さまにおかれましても、年度末はお忙しくされていることと思います。
寒暖差もあり体調管理も大変かとおもいますが、
どうぞお疲れ出せれませぬようご自愛くださいませ。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>そんなことないよと、言っていくれたけど、本当かな…。
わたしは〇〇のつもりで言ったけど、◆◆と思われているんじゃないかな…。
このようなことを想ったことがない人もいるのだろうと思います。
そんなこと考えても仕方ない!意味ない!!と。
ただ今この文面を目にしてくださっている方は、その頻度はまちまちであっても、
このような思いを少なからず感じて生きてこられたのではないでしょうか。
どうでもよくない人、つまり大切な人が相手だと、
さらにこのように煩うことも増すことと思います。
この煩いを乗り越える方法はあるのでしょうか。
わたしには、今、3つのことが浮かびます。
ひとつは、引っ掛かりがあるなら理解し合えるまで言葉を尽くしやりとりすること。
やりとりできないなら、自分で考えながら味わって時の流れの中で昇華していくこと。
もう一つは、「信じる」こと。
でも実は、これらどれもが、なかなか難しいことと思います。
なので人は往々にして、煩いの種を自らまくことをしない方向に動きたくなります。
極端になれば物理的、もしくは精神的にひきこもるのでしょう。
もしくは、うまくいくかどうかは別として、
相手に自分が思ってほしいように思わせるべく、知恵を働かせるのかもしれません。
いずれにせよ、そのにはある種の「苦」があって、
それを「回避」することを良しとしない人は、「苦」を持ちつづけ、
にっちもさっちもいかない出口のない苦しみを漫然と味わい、
生きづらさを感じておられることもあるのではないかとひとつの想定を書いてみました。
この「苦」は、どっぷり味わえるようになれば実は出口があるものだと思います。
でもどっぷりなんか味わいたくないし、
味わうより修復する動きができるに越したことはない…。
それもそうと思います。
今のままでは辛い…。
そのようにお感じになり、当ルームに関心を向けてくださっている方の、
ご連絡・お問い合わせをお待ちしております。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
三寒四温の昨今ですが、皆さまにおかれましてもどうぞお身体大切にお過ごしください。
]]>
今回は、京都いのちの電話ニュースレター第117号の寄稿文を下記に記載してみました。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
コロナ禍といのちの電話
私は、京都いのちの電話の研修委員です。その私の目に映る、コロナ禍でも絶え間ない京都いのちの電話の日々の活動について、私の思うところを書かせていただきます。コロナ禍、京都府においても自殺者が増加しています。私たちの活動の意義を再認識すると同時に悲しさを覚えます。
それでも耳を澄ます
いのちの電話の相談員は、こころざしをもって集結しています。そのこころざしとは、電話をかけてくる方のお役に立ちたいとの思いに他なりません。日常生活の中から時間と労力をやりくりして電話の前にたどり着きます。仕事ではない無償の活動、気を緩めればたやすく電話は遠のきます。コロナ禍においては、それぞれのご家庭の事情や電話の前にたどり着くまでのさまざまなリスクなどを考慮のうえ、その活動をお願いしました。電話の前に座るのか否か、いつもとは違う責任と判断が相談員に委ねられます。電話を受ける場所では、最大限の感染症対策を講じ安全に配慮し相談活動を絶やすことなく続けます。
いのちの電話は途切れることなく鳴り続けます。相談員はそのことを誰よりも知っています。ゆえに、その電話を受け取り、耳を澄ますのです。
そこにあるささやかな喜び
私は想います。相談員は電話のベルを乳児の泣き声のように思っているのではないかと。それは、内容のある言葉を発しない乳児の泣き声に、どのような訴えがあるのかと、こころを使い想像を膨らませながら近づく母親との、私のイメージです。電話のベルが鳴り、その先にいるのはどんな方で、どんな様子で、どのようなお話の内容なのか、何もわからないところから耳を澄まし、こころを傾けます。実際にやり取りが始まると相談員それぞれのこころが動き、想像が膨らみ、その想像とやり取りする言葉と、かけてきた方の言葉と反応との交流が発生します。
その交流の結果は、複雑です。その交流の結果、喜びを得るのですと、言えればよいのですが、そう簡単ではありません。それでも、相談員の人生経験を盾にお説教をするようなことでなければ、耳を澄ましてくれる相談員に触れることそのものが、実は十分に意味のあることであり、かけてくる方の助けになることなのです。その電話でつながっているその瞬間に、相談員が自分に関心を向けてくれていることは、私たちが考える以上にかけてくる方のこころを満たす要素を持っています。これを踏まえて、相談員はゆったり耳を傾け、気持ちに寄り添う姿勢を維持し、少しの沈黙のあと、かけてきた方の「それでは」などの言葉で地味に終わるような電話に、私は最も魅力を感じます。なぜなら、このような電話には、かけてくる方が自分のこころに向き合うことのできる少しばかりの空間が、相談員とのあいだにあったのではないかと思うからです。電話を切ったあと、かけてきた方が、自身のこころに目を向けるような余韻を相談員が感じるなら、おそらくそれはとても有意義な電話と、私は想像します。お礼の言葉に明示されないところにこそ、大きな意義があることにも目を向け、相談員とともにささやかな喜びを発見していくことも私の務めと思います。
分かちあうこころ
コロナ禍、京都に緊急事態宣言発令中は、数名の集まりとなる認定相談員の毎月定例の研鑽は中止としました。この毎月定例の研鑽では、ひとりの研修委員を置き年間を通して同じメンバーで学びを深めます。このなかで、日々の相談活動の困難や気づきを分かち合うことがなされるのです。いのちの電話の相談員は相談員であることを公言できません。ですので、電話を取るその姿勢と傾聴技術の向上を図ることは、相談員同士に研修委員を加えた中で行われます。
私の目に映る相談員の方たちは、この研鑽でのそれぞれの気づきを携えて、電話の前に座ることを真摯に繰り返してくださっています。その姿の軸に見えるのは、電話をかけてくる方の役に立ちたいとの思いにとどまらない向上心です。この向上心の存在が窺えるような方たちが、京都いのちの電話の相談員であるようです。
そして、仲間同士で分かち合われたそのこころの延長線上に、電話をかけてくる方が加わる。それは一人ではないつながりの中に、電話をかけてくる方が加わるような、そんな意義ある電話に醸成されうる、つながりと分かち合いを私は大切に考えています。
私の感謝
つながりと分かち合い成立の要素には、先に記した乳児の泣き声に歩み寄り想像を働かせる母親のこころとのイメージが再び私のこころに浮かびます。私は生業として心理相談業務を行っており、その質の向上に私自身いそしむ必要があることですが、実はこの乳児と母親の交流をモデルとする理論を背景に臨床をしています。なので、私は率直に相談員に想うところを伝えます。おそらくそれは私のこころを相談員の方々に受け止めてもらっていることであり、それが証拠に私は相談員の方たちに「私は想うことすべてをお伝えしますので、その中でどうぞ取捨選択をしてください」と、お願いします。
あらまぁ、それは大変です。そう、大変と思います。
ボランティアだからこのくらい聞けたらいいのではないかとの妥協が、私には全くありません。そして私が学びをともにする相談員の方々にも妥協を感じません。次はもっと、今よりももっと、よい聴き手になろうとする静かな意気込みを感じます。真摯に学ぶその姿勢に私は感謝と敬意を覚え、励まされています。なぜなら、相談員の方々の相談員としての成長が、粛々とした中にも、きらびやかにあると感じるからです。
とても忍耐を必要とする活動を自らの選択で行うことは、相談員自らのこころに向き合うことと同義であると私は思います。コロナ禍で私たちに課された多くの制限は、自らのこころに向き合うことの回避の邪魔、もしくは、その機会を与えたのでしょうか。ひとつの極に、制限されたことで逃げ場を失い絶たれた命もあることは辛い事実ですが、私たちのこころは、苦しみの中から何かを得ることができる側面を有しています。
いのちの電話の相談活動が、苦しみの中にありながらも、ささやかな何かに気づくことにつながることを、私は願います。気づきを生む電話相談となるように、これからも相談員の方々とともに学びを深めていきたいと思います。
]]>その境遇についてある時点までは、何の疑問も感じることなく生活します。
それがやがて、周囲の人と自分とは何かが違うと感じるようになります。
周囲の人との違いを感じるようなことではなくとも、
自分自身のこころの中の違和感やもやもやとして、
このままでは具合が悪いと感じられるようなことかもしれません。
例えばそれが、両親の喧嘩が絶えなかったとか、
親や兄弟から暴力を受けたなどの事実が存在することかもしれませんし、
そのような事実はむしろ全くないのだけれども、
どういうわけか分からないけれど、とても生きづらいと感じることがある。
何の不自由もなく育ててもらって暴言や暴力なんて全くないし、
むしろいつも気にかけているよと、心配しているよといわれて育ってきた。
周囲からも何不自由ない生活でいいねと言われてきた。
なのに、どうしてなのかしんどい…。
自分の気持ちが辛いことの意味が、理由が全く分からない、
きっと自分の感じ方や考え方がまずいのだろうと、
自分を責めてしまうようなことで収めようとすらしてしまう。
だからといって、カウンセリングなどで自分の思いをうまく伝えられるとも思えないし、
むしろ何もうまく伝えることはできないのではないかと思う。
もっというなら、いくら専門家とはいえ他人に何が分かるというのか、
というか、何を分かってもらいたいのかすら、自分でもわからない…。
ここまで、読んで「そうですよ」と思い当たることがおありなら、
ちゃんとご自身のこころを捉えようとされているのではないかと思います。
機は熟しているのではないでしょうか。
もし精神分析的な心理療法にご興味がおありなら、
お問い合わせ、初回+αの精神分析的心理療法を体験されてみませんか。
お気軽にHP右上の「お問い合わせ」から、ご連絡ください。
お待ちしております。
コロナの感染拡大が止まりませんが、
皆さまにおかれましても、どうぞお身体大切にお過ごしください。
辛抱強く感染症対策に取り組みながら日常生活を維持して参りましょう。
]]>学校に行けない状況の中にある冬の季節は、
春に咲く桜と同様に芽吹く準備のための大切な時期であるといえます。
ことばに表現されることはなくとも、
こころの中で準備を整えていくことがなされて良い時期なのです。
家の中でどのように過ごすか、
どのようにこころの準備と身体の準備を整えていくか、
そのことに、ご家族は大きく関与していることになります。
具体的な関与をするのかしないのか?
関与するならばどのようなかかわりが、子どもさんにとって助けとなるのでしょうか?
それは、効果を最大限にすることを考えるなら、
それぞれのご家族のなかでの独自のかかわりかたになる、といっても過言ではありません。
それまで、どのように関わってきたのかによって、
子どもさんのこころの状態がどのようなものであるのかによって、
親御さんのこころの状態がどのようなものであるのかによって、
考える必要があれば、受け入れ側の学校がどのような体制であるのかによって、
諸々のことを考慮し、親御さんからの情報をもとにある見立てと提案を私から提示します。
私から提示された見立てを聞いた親御さんのこころは、
これまでの子どもさんの状況にまつわる蓄積された情報とのすり合わせを自動的に行い、
私の見立ての妥当性をほぼ瞬時に導くことに働きます。
わたしのこころは、そのようには動かないかもと不安になられた方がおられたなら、
ご心配にはおよびません。もしこころが動かないなら、
そのことそのものが私に理解されることからの作業となるということです。
いやいや、なんとかして、有意義な冬を過ごして春に再登校を果たすべく準備をしたい。
子どものこころの準備ができる程に、親として機能できる自信はないけれど、
何とか子どものために自分のことも含めて考えていきたいと思っている。
そのような方のお問い合わせ、ご連絡をおまちしております。
感染症の再拡大に伴い、学校が休校となったり不安定な状況が今しばらく続くかと思います。
こころの平穏を保つことは簡単ではありませんが、
皆さまにおかれましてもどうぞ心身ともにご自愛くださいませ。
お立ち寄りいただきありがとございます。
]]>実現には至っていない…。
何故そう思うのか正直分からないけど、カウンセリングを受けたみたいとの気持ちは、
ずっとこころのどこかあった気がする。
今、このブログを目にしてくださっている方の中には、
このような思いをお持ちの方もおられるのではないでしょうか。
日常生活は何とかこなせているけれど、どこかに生きづらさがあって、
いつかは自分のことについて聞いてもらう機会をのぞんでいる自分がいる。
ひなぎく心理ルームでは、精神分析的心理療法を提供しています。
私の提供する精神分析的心理療法の目的はただひとつ、
その方のこころを知っていくとりくみを提供することです。
こころを知るとは、自分がどのような感情を抱いてきたのか、
どのような考えをもって生きてきたのか、どう生きてきたのか、
それをゆっくりと、じっくりとその方とわたしとが知っていく作業を行っていくのです。
今のままでは生きにくく、不都合があるのです!なので、自分を知っていくとかではなく、
今困っていることを一刻も早く取り除きたい、それだけなのです!
そう思われる方の方が圧倒的に多いのではと思います。
お気持ちはとても良くわかります、ただ、
強くこのように思われる方は、当ルームの精神分析的心理療法は不向きかと思います。
なぜなら、その方のこころの何かが変化するには相応の時間が必要だからです。
そして、こころを知っていく作業を進めると、
不思議なことに困りごとが困りごとでなくなるのです。
置かれた環境・状況は依然と変わらないのに、こころもちだけが変化します。
ご興味を持たれた方のお問い合わせ/お申込みをお待ちしております。
お立ちより頂きありがとうございます。
寒さが厳しくなっておりますが、皆さまにおかれましても体調崩されませんように。
]]>
健やかで和やかなお正月を迎えられたことと存じます。
本年も微力ながら精進してまいりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
コロナ禍3年目となりますが、変わらない感染症対策を講じつつ進みたいと思います。
当ルームも4月で18年目に入ります。
地域に根差した相談室としてこれからも機能していきたいと思います。
本年が皆さまにとって実り多き一年となられますことを心より祈念いたします。
お立ち寄りいただきありがとうございます。
]]>
年の瀬に変なところにスイッチが入っているようで(笑)、少し記載させていただきます。
認知行動療法をはじめ他の心理療法と精神分析の大きな違いは、
無意識が想定されているか否かといってよいと思います。
そして、精神分析の理論を軸に据えた臨床家間では、
「無意識を意識化する」との内容は共有される重要事項です。
それをするのが精神分析であり、精神分析的心理療法であるともいえます。
さて、実際に無意識を意識化するとはどういうことなのでしょうか。
簡単な説明として、それまで意識していなかった自分の心の中にある何がしかの考えや感情を
認識すること、もしくは、忘れられていたあることを想起することも含まれるでしょう。
精神分析的心理療法の臨床実践の中で、
無意識が意識化されたとの認識をどのような時に感じるのでしょうか。
そんなことをそういえば同業の方々と話し合ったことはありませんし、
私自身つねに考えを巡らせているわけでもありません。
ただ最近思うのは、無意識が意識化されるとのことは、
簡単な説明として先に書いた内容が最終的な結果と想定して間違いないのですが、
見逃してはならないのは、それはこころの機能レベルの変容が伴っているということです。
そのことを治療者が認識でき、日々の面接の中で言語化できる水準に持ち上げ、
必要に応じてクライエントに伝えることが出来るとのことがあってこそ、
クライエントの無意識が意識化されこころが変化していくのだと思います。
当ルームでは2012年よりカウチを導入し、本格的に精神分析的心理療法の提供を開始しました。現在は、不登校児童・生徒の親御さんへのコンサルテーションの提供も行っていますが、
その見立ては、私の臨床経験に精神分析の理論を加味して行われ、日々更新されています。
少しの記載は、ここまでといたします。
来年、そして来年度、どのような一年となるか分かりませんが、
健康で日々を過ごしながら、
恵まれた研鑽環境を生かして精神分析の知のすばらしさを私なりに発信できればと思います。
お立ち寄り頂きありがとうございます。
皆さまにおかれましてもどうぞ良いお年をお迎えくださいませ。
]]>
「コロナ禍といのちの電話」を依頼され寄稿しました。
11月12日に発行され、いつものように寄付を下さっている方や、
京都市内の主要駅や郵便局など延べ1200箇所超に送付されました。
今回は、追加で欲しいとの連絡が入り、すでに在庫が少なくなっているとのこと。
入稿から校了まで、2800字程度のものでしたが、とても貴重な経験となりました。
まずもって書けたことの安堵は計り知れず大きなものでしたが、
それに加え自分の書いた文章に感想を頂くことがこんなにも嬉しいのかと涙がでる程でした。
このニュースレターは年2回発行されるA3を二つ折り(A4が4面)にしたカラーの物です。
内側には「聴く・思う・考える」というコラムを毎回、
精神科医の北村隆人先生が寄稿してくださっています。
私は京都いのちの電話の研修委員であり、その立場から書かせていただきました。
毎年、2月と3月には公開研修会として大きなホールで講演会を開催している、
京都いのちの電話ですが、今年はその3月分を第45期電話相談員養成講座説明会として、
はじめの1時間ほど「いのちの電話の可能性と相談員のこころ」と題して、
講演をさせていただく役も仰せつかっています。
こちらの講演が先に決まり、その広報も兼ねてと巻頭言を依頼してくださいました。
ご依頼くださった事務局広報の方々や、相談員の方々のことを想い、
そしてひそかに精神分析のことを想い、書いたり話したりしていくことです。
いのちの電話に関連した本には、転移/逆転移という言葉が突然出た来たりします。
精神分析の知は、険しい実践の中でこそ息づくと感じる象徴的なことのように思います。
簡単ではない相談電話に素晴らしく耳を傾ける相談員の姿勢に、
それを生業にしている私が度肝を抜かれることが多々起こるのです。
その相談員のこころを専門用語は一つか二つの登場に留めて、お話できればと思っています。
私にとってもすべてが学びです。
気を引き締めて日々の臨床実践ともども最善を尽くしていくのみです。
今回は、当ルーム以外の活動について書かせていただきました。
お立ち寄り頂きありがとうございます。
朝晩の冷え込みと外出の機会の増加で風邪気味の方も増えてきているようです。
皆さまにおかれましてもどうぞお身体大切になさってください。
]]>不快をやみくもに回避する一次過程と、考える機能を利用して修正をなす二次過程。
はい。お勉強はここまでです。(笑)
当ルームでは親御さんから不登校状態の子どもさんに関わっていただくことを通して、
再登校にむけた支援を行っています。
この支援の中でも「回避と修正」との視点は非常に役立つものです。
現に親御さんに想いを巡らせていただく内容の多くは、私からの問いと私への問いを往復しながら、回避を可能にしている状況の把握と、その利点・欠点についての認識に充てられます。
子どもさんをいつくしみ育む中で蓄積されてきた親御さんの子どもさんにまつわる情報と、
専門家としての私の見解との交流を通して、どこでどうかかわるかなどの修正内容が決定されて行きます。
このような親御さんと私とが双方向的にこころを使うという動きは、不登校支援に関わらず、
心理療法を含めてあらゆる心理相談支援に好ましいとされて良い状態といえます。
ただ、こころを動かさないと言うことも当たり前に存在していることなので、
このような動きそのものが実現しているなら、時間の長短はあれ効果は必至なのです。
こころを動かすとは、時の流れと共にある種の修正がされ続けることと考えてよいでしょう。
これは簡単なことではないと、私は想います。
そのことがなせている師に学びながら最大限に役立つ臨床を提供できるようにと思います。
臨床家としての研鑽は一生涯つづくことです。
研鑽の内容を臨床に反映させながら、質の維持と向上に努めたいと思います。
子どもさんのこころの成長の為に、
親御さんと力を合わせて取り組むことの意義を深めています。
子どもさんにこころを動かす(煩わす)ことが成せている親御さんのご連絡、
お問い合わせをお待ちしております。
お立ち寄り頂きありがとうございます。
朝晩の寒暖差がありますが、皆さまにおかれましてもどうぞご自愛くださいませ。
]]>
京都は良いお天気でした。
さて、先にアップした当ルームの契約書にまつわることにつき補足させていただきます。
当ルームをより理解していただくための記載となります。
まず、「手術は手術室で行う」と同義にこころを扱うとの記述についてですが、
手術は嫌だ〜と思われたり、手術ということはまな板の上の鯉か!と、
思われた方もおられるのではないでしょうか。
ご安心ください。
そのようなことはありません。
契約書の取り交わしは、精神分析的な心理療法を行うにあたっての基礎となる、
枠組みに対する共通理解を確認するものといえます。
内容は常識的な範囲のものです。
来室される方の自由意思によっていつでも解約できる、とも約束されています。
また、あなたと私の時間として、
毎週お会いする日時を固定することについても触れたいと思います。
毎回、状況をみて次回の面接を決めたいとの想いも十分に理解できます。
そのように予約が取れる所が大半ではないかと思います。
私自身、過去に4年以上の個人分析を2回体験しました。
1度目は私が日時を決めていくかたちで、
2度目は日時が契約によってその始めから決まっての開始でした。
当ルームで私が面接を提供するかたちも、開所から7年目までは来室される方に決めて頂き、
8年目から17年目に至る現在までは契約書により日時を決めてお会いしています。
私にはっきりといえることは、両方の在り方を同時に実行することは不可能とのことです。
そのくらい違いがあることなのです。
と、ここから話を深めると大変なことになりますので、一気に結論に駆け込みます。
悪しからずです。
当ルームは、面接前日の22時までに留守番電話にお休みのご連絡を頂ければ、
キャンセル料は発生しません。
お仕事のご都合などで固定日時変更の必要が生じた場合は調整することも可能です。
当ルームの内実を少し補足させていただきました。
何よりも大切なことは、この人に心理療法を受けたい!という人に出会うまで、
妥協せずに探されることだと思います。
じっくりと自分に向き合いたい、
今までのカウンセリングでは何も変わらなかった、
このままでは生きていけない、
薬だけでは望む改善が果たせないように思う、
などの思いがあるかたのご連絡、お問い合わせをお待ちしております。
不登校状態のお子様を抱えておられる親御さんも、お気軽にお問い合わせください。
お立ち寄り頂きありがとうございます。
感染症も落ち着きを見せ、少し安心感を持てる状況になったことをうれしく思います。
こころは緩めながらも習慣化した感染症対策はしっかりと引き続き行ってまいります。
皆さまにおかれましてもどうぞお身体大切になさってください。
]]>こころの相談を受けれらるところには、個人開業の他に、
公共の相談施設や大学(院)付属の相談室、
有料の民間相談所、病院内・外に併設の相談所などさまざまなところがあります。
まずは、どこで面接の提供を受けるかということを決定するところからはじまり、
その次には、実際の面接者との相性に思いを巡らせることが必要となります。
当ルームでは、初回面接までにまずはご自宅に必要書類を送付いたします。
そして実際の面接を数回体験したのち、継続の有無を決めていただくことになります。
継続を決めた時点で、来室される方の曜日と時間を確保して契約書を交わします。
契約書とは肩ぐるしい感じを持たれるかも知れませんが、とても大切なものと位置付けています。
なぜなら、その方のこころを扱うにあたっての安定した設定の提供を約束するものだからです。
よくお伝えすることですが、手術は手術室でしか行わないということとほぼ同義です。
実際の手術に際しても何らかの同意書が必要なことは皆さまもご存じのことと思います。
面接の日時も契約までは毎回ごとに決めますが、契約書を交わす時点で面接枠が確保されます。
毎回の日時を来室される方が決めるとのことは、例えるなら、その時の気分に合わせて、
次は公園での面接かいいな、cafeでの面接が良いな、しばらく会わない方がよいな、
などの調整を来室される方がすることになり、私はそれについていくことになります。
このようなかたちが悪いとは思いません。その利点もあることです。
ただ当ルームでは、このようなかたちでは成し得ない、
精神分析的心理療法の成果に向かって歩みをすすめることを選択しています。
また細かいことでは、来室までの書面のやりとりや、
来室は時間丁度に来てくださいとお願いすることなど、
なんだか面倒だなと思うことが当ルームにはあります。
でもそれを面倒だと感じるか感じないかには相当な個人差があります。
このようなことを含めて、はっきりと当ルームのかたちをお示しすることで、
実りのない来室を極力避けていただくことができているのではと思っています。
私と契約書を交わして、私とあなたのこころを知る作業の歩みをすすめるかどうかは、
実際の私との面接を経てあなたの判断できめていただくことです。
当ルームに興味を持たれた方のご連絡・お問い合わせをお待ちしております。
お立ち寄り頂きありがとうございます。
時節柄みなさまにおかれましてもどうぞご自愛ください。
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どこが苦しい?
脇腹の辺りが…、息がつまる感じ…、頭が重い…、・・・。
生きづらさの感覚と並行してこれらのことを想うなら、
こころの中にある何かが、その思いを分かってほしくて苦しさを訴えている。
わたしはそう考えてみます。
身体の不調には、診てもらう(医療受診)こともおろそかにできません。
見てもらったけれど器質的な原因は不明で、なおかつ生きづらさもある。
となれば、その苦しさにどう対処しますか?
こころのお薬を使うことも一つです。
カウンセリングで自分の気持ちを言葉にすることも一つです。
当ルームの精神分析的心理療法のような、
自分のこころの状態や気持ちに目を向け、私と共に感じ考えていくような取り組みも一つです。
心理療法も実は色々あります。
当ルームは、開設17年目となりますが、
開設当初はいろいろな心理療法の学びが混ざったカウンセリングを提供していました。
それはそれなりに役にたっているようでした。
しかしながら本質的にこころの状況が変化しているかと考えたとき、
私が感じ取る範囲であっても納得できるこころの変化をなしているようには思えませんでした。
約11年前、私は精神分析に出会いました。
師を得ました。
私の臨床が変わりました。
私のこころも色合いを変えました。
私のこころには際限なく何かが加わるようになりました。
加わるものは、体験からくる情緒のひだのようです。
こころはかわるのか?
17歳の頃、私はこのままのこころでは生きていくことはできないと思いました。
今は、全く違う気持ちです。
精神分析は、私が体験したこころの変化を提供できる理論を持っています。
その理論を背景に私が来室される方にどう出会い、作業するのかにかかっています。
こころのやりとりにひな形はなく、常に葛藤を抱えながらの歩みとなります。
その歩みの体験から私の情緒のひだが増え、
より有効な何かを来室される方に還元できればと思います。
こころが今とは違ってもらわないと、生きづらくて、このままでは無理。
そう思い、願い、これ!と決断できる取り組みをされるなら、
こころは変化できる。
私はそう思います。
私自身に関してはそう実感できる事実があります。
お読みいただきありがとうございます。
当ルームの精神分析的心理療法に関心を持たれた方は、
遠慮なくお電話かHP右上の「お問い合わせ」よりご連絡ください。
お待ちしております。
お立ち寄り頂きありがとうございます。
時節柄、みなさまにおかれましても体調崩されませんようご自愛ください。
]]>
コロナ禍であり授業の提供をどのような形で確保していくかは、
学校ごとに配慮と工夫がなされていることと思います。
共通して言えることは、
子たちへの感染の割合が以前に比して上昇していることでのさらなる緊張感の高まりです。
できる限りの感染症対策に総力戦で臨むことのみではありますが、
まずは一日も早い小康状態の訪れを願わずにはおれません。
さて、本題に入ります。
不登校状態が発生しそうだ、不登校になってしまった。
そのときの親御さんのこころの混乱と苛立ちは、経験したもののみが知る過酷なものです。
あまりの過酷さゆえ、
時間の経過とともにこころの状態を変化させて対応することが発生します。
その自身のこころへの対応は、親御さんごとにまちまちとなってきます。
当ルームで私がお会いする親御さんには共通点があります。
それは、労力を割いて子どものこころを理解しようとする姿勢です。
そしてその親御さんのこころを通して大切な子どもさんのこころに触れていただく、
毎週お会いして、そのような細やかな取り組みを遂行します。
そこには私がお伝えすることを取捨選択する親御さんの能力、
選択した課題を実行して結果を私に報告できる能力、
私とのやり取りのなかで重要な子どもさんの言動を想起する能力、
想起したことを私に伝えることのできる素直さとさらなる吟味にこころを開く能力、
これらの能力を当ルームをご利用くださる親御さんは有しておられます。
私のお伝えすることにまずは知的に納得されることが先行しますが、
引き続いて私のことばに耳を傾けて受けとめることは、
実は親御さんのこころにも相当な負荷をかけていることを私は知っています。
その負荷のかかった自身のこころのバランスもご自身でとりながら、
徒労に終わるかもとの不安も抱えながら足を運ばれます。
「行きました!!」
「えっ!!」
「行きました!」
「え〜〜〜〜〜っ」
「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
すごいと思います。
親御さんの愛情と勇気が伝わった証左です。
また行けなくなったら・・・との不安が必ずよぎります。
もしそうなるなら、何らかのこころの必要があってそうなることです。
なのでそれはさらなるこころの成長のチャンスです。
必要なことなのです。
その必要なことにこころを寄せられる、考えられる大人として、
専門家として親御さんとともにありたいと思います。
お立ち寄り頂きありがとうございます。
季節の変わり目ですが、皆さまに置かれましてもどうそお身体ご自愛ください。
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