ひなぎく心理ルームでは臨床心理学の立場から、いろいろな心の「悩み」や「葛藤」、「違和感」などに対してお話を充分にお聴きし、共に見つめ、整理しながらカウンセリングを進めていきます。
こどもの日

私はこどもが大好きで、それは私が幼少の頃から一貫しています。

私の記憶では私が小学校に入るか入らないかという頃から、

核家族で暮らすお母さんの小さな赤ちゃんと、お母さんが買い物に行く間、

そのおうちの中で、二人でお留守番したものでした。

それは私が中学生になるころまで、何カ所のお宅にも及びました。

 

今から思えば、私はお母さんから絶大な信頼を得ていたのだと分かります。

その時は、ただ可愛い赤ちゃんと過ごす時間が楽しかったことを思い出します。

何を思い出すがといえば、その眼(まなこ)です。

透き通った真っすぐな眼の奥で動く気持ちに思いを馳せることが楽しい私でした。

 

今でもすれ違うこどもの眼と交流することがあります。

最近も印象的な出会いがありました。

 

向こうからバギーに乗った子が、ご両親と3人でやってきます。

そのご両親のいで立ちから、遠目にも日本の方ではないのが分かります。

お母さんは綺麗な民族衣装をまとい、東南アジアの方かなぁと思います。

 

少し距離が近くなり、2歳半くらいの男の子と分かります。

 

子どもとはいえ、当たり前のことですがそれぞれに人格もあり、

その時の気分もあることです。

目が合うということもいつものことでは決してなく、

私は子どもが好きなので、私の方は視線をほぼ向けますが、

視線が合うことの方が少ないものです。

 

その子は、くりくりのお眼目で、私の目を捉えます。

その澄み具合に、私は釘付けになります。

 

すれ違うその瞬間、

その男の子の凜と引き締まった口角が最大限に持ち上がり、

顔半分を占める(日本人には表現不可のもの(笑))

笑顔を見せてくれました。

私は、とても感動して、

「わ〜〜、可愛すぎる、それに、国境を超えた・・・」

「国境を・・私は超えたよ・・・」と、

あげく、意味不明な感動が混ざり込むありさまでした。

 

さらにいうと、私はその時、マスクをしていて、

彼からは私の目しか見えていないにも関わらず、惜しげもない笑顔でした。

きっと彼には、その瞬間の私の目から、愛情を感じ、それに応えたに違いありません。

今、「おしい」を広辞苑で引くと、〔惜しい・愛しい〕との記載。

「惜しげもなく」という表現の中に愛しさがあるのですね。発見。

 

私は、こどもに対峙する時、どれくらい気持ちが動いているのか否かに注目します。

それは私にとって、非常に重要なもので、そのことを親御さんにお伝えし、

それが、親御さんの感覚と合致し、安堵していただくこと数知れず、と言える程、

わが子にされた不用意な発言に傷つく親御さんのこころに何度も出会ってきました。

大好きな子どもを支えるために、親御さんを支えたいことです。

 

こどもの日にちなんで、こどもにまつわること、記載しました。

それでは、これにて失礼いたします。

お立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 

あっ、八大神社の子ども神輿の御囃子が聞こえてきました。(笑顔)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| 私の思考 | 14:10 | comments(2) | trackbacks(0)
左斜め前

少しご無沙汰してしまいました。

今日の京都は冬らしく寒かったです。

 

私はお抹茶が好きで自宅で点てるのですが、茶筅の先端が数本かけ、

新しい茶筅をと数ヵ月まえにネットでお手頃なものを購入したのですが、

先端がくる〜っとなっていて、私にはうまく扱えませんでした。

国産ではなく、ものが良くなかったのが理由かもしれませんが。

 

ず〜っと使用していたものの先端は少し内向きなだけで、くる〜っとカールしていません。

本日、似たような作りのものを購入してきました。

お店の方に、現在使用している茶筅の写真を見せると、これ(白真)ですねと。

帰路に和菓子屋さんに立ち寄り、早速、点てていただきました。

合格です。が、先端が数本かけていても、長年愛用している茶筅も、

色の深みを増し、形も美しいまま維持されていて、お抹茶も細やかに美味しくできます。

新しいものも、古いものも良い。(笑)

でもどちらかというと、古いものに改めて愛着を感じる私です。

 

ここまでのところ、「左斜め前」とは、全く無関係な記載です。(笑)

 

「左斜め前」に入ります。

それは漫画の吹き出しのように、左斜め前に感知というか、イメージされるというか…。

人の話を聞きながらその情景がイメージされ、どうやらそこのイメージを基準にことばが発せられていきます。

また、何か強いインパクトのある言葉が特定の関わりのある人から発せられた瞬間に、

その内容に即した情緒をまとった相手の表情がドアップで脳裏に見えます。

 

その見える方向が「左斜め前」なのです。

その距離の遠近は多少あります。

それは多分、私自身が左斜め前を認識しながら、

ことばを発しているか否かに関係しているように思います。

何で「左斜め前」なのかなぁ。

つまりは、脳のどこが何をどう処理しているのかということなのでしょうが、

きっと一生分かりますまい。(笑)

 

そうそう!左斜め前やんな!(やんな!は、関西?京都?弁)

と分かち合えることがあるのかないのか。

考えているときの吹き出しのようにみんなそうなのかな。

ただ、何かを思い出して頭の中でイメージするときは、とくに左斜め前ではなくて、

いうならば全体に想起するかんじなので、左斜め前は左斜め前なのです。

(笑)

とういう、取るに足らないお話でした。

 

寒いですが、皆さまにおかれましても、どうぞお元気でお過ごしください。

お立ち寄りいただきありがとうございます。

 

 

| 私の思考 | 17:49 | comments(0) | trackbacks(0)
ささやかなこと

今日は朝からしとしとと雨が降っています。

傘を差しながら歩き、信号に差し掛かります。

 

差し掛かる信号は青、次の信号は青が点滅していて少し駆け足で渡ります。

 

3つ目の信号もたどり着くと青になり、「わっ、ラッキー」と小さく声が漏れました。

次の瞬間にこんなことで喜んでいる私がいると思い、

逆に赤信号ばかりでもおこることはないとも思い、

その次に私は幸せな人だと思いました。

3つ目の信号を渡りきるまでの間に、とても客観的な感覚で思い巡らせました。

 

そして、信号を渡ると「あっ、ブログに書こう」と思い、

それに続いて今年に入ってからの自然災害に思いを馳せました。

ささやかなことに心を動かしながら生きることは、ときには避けれる傷みも感じさせますが、

そのようにしか生きられないのであればそれはそれでいいなぁと改めて思いました。

災害に見舞われるということはささやかな当たり前すら得られないことを実感することになり、それは日々、発生している私たちの喪失の痛みにも言えることなのだと思います。

 

昨年の今頃、他県での勉強会の翌日にそのまま隣の県で仕事というおり、

自然災害で移動の電車が動かなくなり、車での迎えを待つという事態となりました。

長い時間、待機する事態は喜ばしいことではありませんでしたが、

待っている間に嬉しいことがありました。

人によってはそれはささやかなことと思うようなことですが、

私にはとても幸せな出来事でした。

えっ、何って?

それは、いいません。(笑)

 

自分にとってのささやかな喜び、幸せは幸せであり、ささやかであればあるほど、

デリケートなので不特定多数とは分かち合えないかと思います。(笑)

最後に喧嘩打ってる?

滅相もありません。

悪しからずです。

 

朝晩が涼しくなって、咳をする人を見かけるようになってきました。

 

皆さまにおかれましても、お身体大切になさってください。

 

 

 

| 私の思考 | 12:57 | comments(0) | trackbacks(0)
精神分析を想う

精神分析を語ろうというものではありません。

ばっさり。

「想う」つまり、わたし独自の精神分析へのイメージをつぶやくことです。

 

当ルームの開業臨床が、対面でのカウンセリングからカウチ(寝椅子)を中心とした精神分析的心理療法に形を変えたのは、私が師事を願った精神分析家との個人分析が実現したことにはじまります。

その個人分析が始まりカウチの有効性を確信した私は、

分析開始から1年後に当ルームでカウチの使用を始めました。

 

私自身が受けていた分析中のある時、私は自身の臨床実践の変化に気持ちを向けていた語りの中で、実感をこめて言いました。

 

「「そこ」つかっていいんや」・・・と。

 

ところで・・・、「そこ」って、どこ? (笑)

 

私自身が発したことばで、ものすごく実感がこもっているのに、「そこ」がどこか分かりません。

はっきりしているのは「そこ」がこころの機能の何かであることで、背中のかゆいところを指しているのではないということです。

それと、どうやら「そこ」はカウチ設定を好むようです。

「そこ」は、難問です。

 

ビオンの理論に心躍らせ、学びを進める程に「そこ」への問いは深まります。

自身の分析体験と臨床実践を軸に問いは広がります。

ときに凝集(笑)させないと、微量な脳みそからばねが飛び出るので、○○かなと着地しますが、また飛び立ちます。

 

「そこ」は分からなくていいものなのかもしれません。

でも「そこ」は、私が精神分析的心理療法と思うものを施行し始めてから使われはじめ、その臨床は明らかにそれまでとは違う手ごたえを私にもたらしているがゆえに、私は、一生をかけて「そこ」を含めた臨床で体感するそれが何かを、探索していくのだと思います。

 

つまり、私は精神分析を愛して止まないようだとのつぶやきです。

 

暑いときに、熱い話になってしまったかもですが、

皆さまにおかれましては、涼やかに夏をお過ごしくださいませ。

 

ご精読、ありがとうございました。

 

 

 

 

| 私の思考 | 18:49 | comments(0) | trackbacks(0)
「知っていること」の障り

みなさんは自分が何をどれくらい知っていると思われますか?

これは愚問だと我ながら思います。
もし自信をもって答えるなら、それは知るべきことがこれくらいだと推量できているとの感覚(万能感)が存在することを証明するに過ぎません。ごくごく限定的な問い(範囲)をはっきりさせた上での答えなら考える余地はあるかもしれませんが。

限定された範囲であっても、自分は「知っている」と思うことでの安心や慢心や自負、さまざまな思いがそこにはあることでしょう。本当に「知っている」ということはまだ知らないことが山ほどあることも同時に知っているこころでもあるでしょうし、そうでないなら、それは「知らない」ということに耐えられないがゆえの「知っている」であり、成長やその変化を妨げる障りとなり、時としてこころを偏狭にすることでしょう。

私は小さい頃、母親に理不尽と思うことについて意見した時、「大人はいいの!」という答えを何度か聞いた覚えがあります。
昨今のように情報があふれる社会ではありませんでしたので、「大人の世界」というものに対する畏れがありました。
そしてまた大人になったら、自分で選択できる自由があると、その行く末に「大人になったら・・・」との思いを持ったものでした。
それは炭酸のジュースを飲んでみたいだとか、ハムをたっぷり食べてみたい(身体にいいものをとの母の考えであまりたくさんありつけなかったものたちです)だとか、そのようなかわいらしいものですが、それは大人になって行くことの原動力にもなり、そうこうする中で欲求不満に対する耐性も付き、社会での職業人としての適応力も備わる一助ともなるのだと思います。

学校という現場で今の子どもたちを見ていると、情報に圧倒されて、そのことでの傷つきをなんとか癒すために、さらに情報を貪り、さらに傷つき、最後には躁的・うつ的に防衛するしかないような光景を目にすることがあります。
時期尚早に知ってしまうことの障りはことさら深刻に感じます。

そして若年者にとっての「知ってる」という思いは、大人社会へ進んで行くことの意味を奪ってしまうかのようです。

どんどん内容は深まって行きそうですが、ここで浮上します。

子どもたちという視点で「知っている」ということについての障りを考えるならば、私はひとりの大人として、目を輝かせて知らないことに好奇心を持ち、歩んでいくことの楽しさや喜びを感じさせられる人になりたい。

そうありたいです。

でも難しい〜〜(笑)  苦もまた友達です。

ご精読ありがとうございました。


 

| 私の思考 | 21:17 | comments(0) | trackbacks(0)
かげぐち
陰口=「その人のいないところで言う悪口」(スーパー大辞林)
過日、新聞の書籍の見出しかなにかで、「陰口は大きな声でいいなさい」というような一文がありました。
何となく脳裏に残っていて、ふっと思い立ち書きます。

私は誰かを相手に陰口を言うか言わないか?と考えた場合に明らかに言っているひとです。
私の考えで腑に落ちないことには自ずと反論というか別の見解があるわけで、そのことを言葉にするとそれは暗に陰口ということになってしまうのかもしれません。
陰口を言う私であるということでも何らかまわないのですが、陰口という言葉の印象から私は、「当の本人には内緒でとか、ばれないようにぐちぐちと文句・悪口を言う」という思いがあり、それなら私は少し違うのではないかという異議申し立てをしたくなった次第です。

私が陰口を言う人間だ!!と、誰かに言われたわけでもありませんので、あくまで私の頭のなかでの論争であります。(笑)
私がいうことはほとんどいつも当の本人に聞いてもらってもいいと、むしろ聞いてほしいくらいだ!!と思っていることが多いようにおもいます。だけれども相手が聞きたくないか、聞いてもらうことが必ずしも事態を良くしないだろうと思うときにその内容を共有できる人との間ですませるということのようです。
このブログを見られる可能性のある方などがここでいう陰口を言われているかもしれないと思われる必要はありません。
大体においてわたしが思い描く人がこのブログを見て下さってるとはおもいませんので。

と、なんだかぐちぐちムードになってきそうな感じは避けたいので(笑)、ここら辺であっさりと退散いたします。
すみません。多忙ゆえご無沙汰しておりました。


 
| 私の思考 | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0)
いいとこどり
人は皆、私を含めいいとこどりをしたい気持ちを大なり小なり持っていることに否定の余地はありません。
このような思いを改めて意識することも日常ではないことでしょう。
しかし時としてこのことが社会生活のなかで影響を及ぼしている事態があることもまた事実としてあります。またその影響が大きく出ている人ほど本人の自覚は皆無であるかのように見受けられます。

おいしいものが食べられて、欲しいものが手に入って、苦難はあらゆる手段をありったけ駆使しなるべく速やかに取り去るべしと動きます。それは決して悪いことではありませんし、私もそのように動いている内の一人です。

ただ厄介なことに一見解決されたかに見えても「こころのこと」だけは納得するまでどこかに隠されて(隠れて)居つづけ、折にふれその存在を知らせるかのように「今」に影響を与える形で顔を覗かせます。

例えば最近思うことがあったからゆえですが、「先生」と呼ばれる職業のどんなところに何を意識してそうなろう、そうあろうとしているのでしょうか?
先生としてあがめられたい満足したい等の自分の思いが前にあるのか、それとも自分にその責が果たせるのだろうかとの責任感に類する思いが前にあるのか、そのスタート地点で随分と様相は違ってくるのではと思います。一概に言えることではありませんが、この時代はややもすると前者の比重を多くしやすいのだろうと思います。
そして、前者には社会での叱責が通用しないどころか、叱責するものを「悪いもの」と決めこみ少し受け入れてくれたものを「良いもの」とし、双方を完全に分割して認識しようとするようです。一人の対象がその状況、自分の行っている事に照らしていい反応や叱責の双方が与えられるという事が想像できないかのようです。

そろそろ重苦しい愚痴に近い内容を浴びせれられていることのご負担を感じさせているやもしれません。

新しく始まったNHK連続テレビ小説「ごちそうさん」だったでしょか?(笑)
<第12話>主人公の女子は食べることにしか興味のない、つまり直接的に即、自分を満たしてくれるものが大好きという御嬢さん。そこの家に大学生の青年が下宿人としてあらわれ交友が展開しているのですが、この青年が淡々とはしているもののこの御嬢さんの事について真摯に考えを漂わせる(といってもその御嬢さんから話された内容についての興味でその人全体にではないと思われますが)側面と、客観的にこの御嬢さんのしていることを言語化し指摘していくという側面を併せ持ち、次々に指摘されるので御嬢さんはどこか腹を立てながら、しかし理解を示されるのでなにやら心惹かれていくという展開のようです。
今回の青年にはいつもの何か無神経で頓着なく言葉をはいているというだけではないような繊細さを若干含ませているようです。
主人公が何か言われて心波立つような場面はドラマにはありがちなことなのでしょうが、個人のこころの動きを含めて扱い、それを指摘するという事を色濃く感じさせるなぁと思いました。

話を戻して混ぜますと、いいとこどりのそもそもその起源として、特に母子関係の中で親密に向き合って愛情も苦言も双方をたっぷり行き来させてきたのかな?と。安直に満足するものをあたえてその直接的な関わりが不足していたのではないのかな?と思ってみたりするのです。
かりにそうであっても不足などには目もくれず、かりそめであってもしてきた満足を求める気持ちだけは一人前であり、そのことを維持し、守ろうとするこころの動きが当たり前になりすぎていることがありはしないかなと。

かりにそうであるなら、今、そんなことを守るとか守らないとか言っている場合ではない事態が起こっているのが日本であり、いいとこどりなんてするどころか、傷みの中から学び、気づき、立ち上がり…という事を繰り返し、生きるという事の原点に立ち返ることが見直されていいのではないか? 社会は個人の集合からなりたっているわけですから個々人がしっかりと自身を見つめる力をつけることを問うているドラマ?なのではと。視聴率がどうなっていくのかはわかりませんが、そんなことをふっと思ったりしました。(何かにかこつけて私の考えを乗せようとしますので、少々こじつけがましくなりますが(笑))

いいとこどりからは何も生まれないし育たないというのが私の思いです。

長くなりました。
突然終わるようなことかもしれませんが、悪しからずです。

ご精読ありがとうございました。


 
| 私の思考 | 18:47 | comments(0) | trackbacks(0)
転移・逆転移・転移解釈について思うこと

昨年の5月11日に記載した「転移・逆転移・中立性について思うこと」(カテゴリー<私の思考>で見てもらえると1ページ目です)が、数ある記事の中で常にアクセス数が多く、そのことを思うと削除することも考えましたが、ひとまず新たに書くことにしました。(2013年1月、この記事については非公開にしております。悪しからずです。)


削除というのは、私自身の向き合えなさがどこか半分茶化しているような文章の感じに見て取れ、その内容もすべてではありませんが、ある部分においては今の私にとっては、痛く恥ずかしい感じがしているからです。
それも成長過程の私ゆえ、それはそれでありのまま・・・と考えます。

が、このような自己開示をしながらの仕事・・とした私の考えが、今は、変化したということも同時にお伝えしなければなりません。

私は転移や逆転移を認識しながら仕事をしていましたが、少なくとも転移を利用する精神分析的なやり方を行ってはいませんでした。
転移解釈を軸として、自身の身をその転移の器として機能させることはしていませんでした。

そのような形でしか成しえないことの奥行きと壮大さにまったく気がついていませんでした。
もちろん、今でもまだまだ知りえないことだらけであることは言うまでもありません。

私自身が体験した(する)精神分析家による個人分析は、たった1回、初回の分析体験で、私の今までの認識が覆るには充分でした。
私がそう感じたのは、私がそのようなものを無意識下で求め続けていたからにほかなりません。
衝撃でした。

今は、自己開示(もちろんクライエントの話に沿ったものですが)について、実感として不要と感じています。
乱暴な言い方をすると、たいしてクライエントの役にも立たず、自己も開示せずふんぞり返っていて何なのか?せめて、クライエントの役に立つ形の精緻された自己開示ならいいではないか!と、思っていました。

繰り返しますが、タイミングやその意味をとらえながらの、あくまでも精緻された自己開示です。
私にとっては、このことはきっとたやすかったのです。
研鑽もしてきましたし、一定のレベルの仕事は出来ているであろうことは、当ルームが、7年存続していることが証明してくれています。

しかし、私自身が立ち入れなかった私自身の無意識の領域が私の手中に入り始めたとき、同時に私の求めていた私自身の臨床のありようがはっきりとつかめたのです。

頭の先から爪の先まで、クライエントのために存在するということが、どういうことなのかということが。

こうやって、自身の考えを述べていくことをしている私は、引き続き自己開示をしているに他ならないと自覚しております。

ただ、今まで公に出してきた以上、それなりの形をもって整理していきたいという思いがあり、恥ずかしながら表現しております。

このブログは、当ルームを知っていただくための「広報」として位置付けていることも事実ですし、その点においては、アクセスの期待できる題材や、スケジュールなどは、細々と当面は存続する予定です。

お年賀でも、ブログを見ています・・・と、このブログの中で、当ルームに思いを寄せてくださる方には本当に心苦しい限りですが・・・。


転移・逆転移を感じながら、転移解釈をするという精神分析的心理療法のなんたるかを、実感として感じている私がいます。もちろん私なりにですが。

お題にはしたものの、実感しているとしか言いようがないのは稚拙で申し訳ありませんが、かりに言葉にできたとしても、私の私的な感情は(公には)私の中にとどめるべきものだと思っています。
今はそう思うようになりました。



まして専門的なことを流暢にかたる知識はまだありません。



ご精読、ありがとうございました。




 

| 私の思考 | 22:33 | comments(0) | trackbacks(0)
孤独との付き合い方

皆とつながっているけれど、誰ともつながっていない・・・。

いや、そうではない、しっかりつながっているじゃない。

決して、孤立はしていない。


でも時々、こころの隙間を縫って、孤独感・・・、さみしさといってもいいかな、そんなものがふわぁっと、
あがってきます。
ふわぁっとというと、煙のように立ち込める感じですが、でもなにか細長くて、少しツンツンと、
つついてくるような感じでもあります。

孤独を感じない方法は、人によっていろいろなのだろうと思います。

孤独など感じたことがない、という人もいるかもしれません。
しかしこれは意識的には感じたことがないということであって、一人で生れて一人で死ぬということを考えると、孤独感はいつも自分のどこかにあると考える方が自然に思えます。


年齢を重ね、人生の先が見え、初めて孤独を感じて一気に絶望感にたどり着いてしまったりすると、
それこそ絶望ですね。 (笑) 笑いごとではありませんが。


17年になる愛猫の「死」を想像して、その時に備える私も、想像できるさみしさには懸命に対処(自己防衛)
しようとしているのだと思います。

誰しも一人だからこそ、人とつながりたいという思いが出てくる。


でもエネルギーを消耗するだけの上っ面の付き合いは、さらに孤独感を増長させ、生命の活力をも奪ってしまう感があります。

早い時期から、私はOLさんにはなれないと確信していました。
つまり、大人数の中で他者の顔色に振り回され、気を使い、エネルギーを消耗し、つきていくことが簡単に想像できていましたから。

今、この仕事にたどり着き本当に良かったと思っています。

望む、望まないにかかわらず、自分自身の中の孤独感に大なり小なり突き動かされている方々と出逢っていくこの仕事は、私自身の孤独感を無視することが出来ない反面、それとどう対峙するか、対峙に留まらず、それをいかに許容し、自身の一部として、そこにあることを許せるか・・・におのずと取り組む・・・。

難しい・・・・。


っていうか、(孤独感)  いらないですよね。  (大笑)


そう言ってしまえば、身も蓋もありませんが、あるからしょうがないのですが・・・。


でも、ちょっとすっきりしました。 (笑)


「孤独との付き合い方」なんて、分かった風に、すでに導きだしている答えをつらつらと記載するのではと期待された方には申し訳ありませんが、答えがあって書き始めたわけではなく、私の心の中に浮かんできたお題を契機として、ここで作業をさせていただいた感じです。

公開カウンセリングかよ!!  (笑)


それで、不思議とすっきりしたのですよ。


はい。  (笑)


書いた責任上、解説させていただくとすれば、半ばもやもやと書き始め、最近少し孤独感を意識している私に出会い、あーでもないこーでもないと表現し、現在の仕事という自分の立ち位置を確認し、なら生きてていいかなとなり、嫌だねーと笑い飛ばし、再度自分のここで表現したプロセスを書いたことで、ひとまとまりになった感じです。

こうやって、自分の心のありようをぐるっとめぐる作業がまさしくカウンセリングの場面だと思います。


と、宣伝もしっかり最後に行い、(笑) おあとがよろしいようで。 (私だけ!?(笑))


最後にもう一つ、孤独感はみんなにあって、だけど表現して、分かち合ってもらえたら薄らぐ、
そしてなんとか持ちこたえられるかも、ということが感じられた気がしました。



ありがとうございました。 (笑)






| 私の思考 | 19:48 | comments(0) | trackbacks(0)
理論と実践(臨床)をつなぐ感性
私は身体のことに対する医学的処置と、心の問題(課題)に対する臨床心理士の取り組みを対比させてクライエントに伝えることをよくしますし、私自身の思考の中でも、置き換えて考えるとどうなるかということを、よくします。

医学でもイメージによく使うのは外科の領域がおおいかな。

理論を学習することは、手術で使う道具をそろえていくことだと思いますし、日々研鑽を重ねていくことは、その道具を常に良い状態で使用できるようにメンテナンスすることのように思います。


現場の臨床、つまり面接場面は手術の本番です。


しかし、毎回が手術というわけではなく、どこをどのように処置していけばいいかを、時間をかけてみていくという側面が大半です。
そして、クライエントからの何らかのゴーサインが出た時にメスを入れる場合もありますし、いろいろなクライエントへの質問、情報収集から、ほぼ間違いなく、ここにメスを入れてもいいだろうとの推測がたてば、流れの中で執刀にいたることもあります。

盲腸の手術もあれば、心臓や脳などの難事な手術まで様々です。
こちらが執刀するまでもなく、痛いのに自分で執刀して、膿まで出して来た人には、消毒して縫ってあげるだけで、大感謝されたりもします。

自分は今、どのあたりの手術までこなせるのか、知らなければなりませんし、心理を扱うのも同じことだと思っています。


理論を学び、メスを磨き、切れ味抜群で、てんで的外れなところにメスを入れたら、それは大変なことです。


我々は心に分け入るメスを、持っていると思うのです。


だから、治せる(役に立てる)のです。


クライエントの状態をいい方向に持っていくために役に立つ理論と、実際のクライエントをつなげる間の物は何かといえば、それはセラピスト(臨床心理士)の感性(そのことを伝える技術も含めた)に他ならないと思うのです。

その感性が機能しないと、いくら理論を知っていてもつながらないだろうと。

盲腸になれば、手術して取ってもらうと治る、と素人でも知っています。
しかし、この状態が盲腸であると判断して、それに対してしかるべき処置を出来る専門家が医師なわけです。

医師でも、これは盲腸だということが判断できず、ただの腹痛ですねとしていると、適切な仕事にはなっていないことになります。


この辺で止めておかないと、自分で自分の首を絞めていくことが感じられてきました。 (笑)



あくまで、自戒をこめての文章であります。



まして、同業者にメス(牙)を向ける物ではさらさらありません。 (笑)



はい。  (笑)








| 私の思考 | 19:40 | comments(0) | trackbacks(0)
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< May 2019 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
LINKS