ひなぎく心理ルームでは臨床心理学の立場から、いろいろな心の「悩み」や「葛藤」、「違和感」などに対してお話を充分にお聴きし、共に見つめ、整理しながらカウンセリングを進めていきます。
「真実告知」

先月、ある里親の会で講演させていただきました。

講演内容に是非とも盛り込んでほしいと依頼されたのが「真実告知」でした。

 

ここでいう「真実告知」とは、里親などの養育者が育てている子どもに、

産みの親は別にいるとの真実を告知することを指します。

「真実告知」について、仲介者となる行政機関からは行う方向でと、言われるそうです。

言うは易し、するは難しが、誰のこころにも創造できる内容ではないでしょうか。

 

私にとって里親の会で話すのは初めてでお役に立てるかどうかと思いましたが、私を知ってくれている友人からの依頼であり、二十数人とのことで、講演1時間、全体での質疑応答40〜50分、希望者への個別相談枠1時間という形で引き受けました。

講演に向け『里親と子ども』vol.9明石書店(東京都)を講読する中で、真剣に向き合い言葉を紡ぐ「真実」というものにまつわるかかわりに、精神分析、対象関係論クライン派の理論が重なり合い始めました。

重なり合うだろうと、どこかで思いお引き受けしたのかもしれません。

 

里親と子ども双方のこころに焦点をあわせた内容には、❝対象喪失❞の視点を加えてお伝えしました。

対象喪失からの回復の道のりは、私自身の阪神淡路大震災や大阪教育大付属池田小学校での活動を通してお伝えしました。

持ち堪えなければならない里親さんの日々のかかわりがもたらす意義をお伝えしました。

「真実告知」について、そのタイミングは❝子どもの問い❞にあり、繰り返され、告知の失敗などなくたとえ溝が入ったとしても、その修復のプロセスはさらなる関係の深まりをもたらす機会となる、その事実は軽くないが深刻である必要はない、など思う所をお伝えしました。

 

集まって下さった里親さんの苦悩・苦慮する真剣さに、講演後も思いを馳せた私でした。

 

『里親と子ども』で当事者の女性が真実告知について書かれていたこと、「漠然とした欠落感を背負ったまま人生を歩むことは少々しんどい。真実告知は一時的にショックを伴うかもしれないが、養子や里子は人生の最後のピースが「パチン」とはめ込まれる瞬間を待っているのである」と。

イギリスの精神分析家ビオンが、こころに不可欠な栄養として「真実」を挙げたことが想われます。

 

真剣、誠実、まじめで何が悪い。

これらのことがどれだけ人のこころを揺るがすか、揺るがされた心の感知がどれほど生きている実感をもたらすか。

ここに苦と共に偉大なる喜びがあることを知るのです。

 

何さま?と言う感じになってきましたので、このあたりでお開きといたします。(笑)

講演は、そこで出会った方たちとの交流は、私にとって貴重な経験となりました。

この経験を経て、今の私があります。感謝です。

 

ご精読、ありがとうございました。

 

| 臨床心理士 | 19:21 | comments(0) | trackbacks(0)
子どもの発達と精神分析

過日、京都府臨床心理士会 子育て支援部局研修会(キンダーカウンセラー研修会)で、

京都基督教福祉会児童発達支援センター洛西愛育園の発達相談員(臨床発達心理士)

睫攘短卆萓犬里換峙舛紡臺儡玉辰鬚Δ院▲▲奪廚留燭咾帆蠕りました。

 

まずもってお伝えしたいのは、睫收萓犬里換峙舛瞭睛討長年の(ご自身でこの(フロア)中でおそらく最も高齢だろうと言われていましたが)臨床経験から紡ぎだされているということです。

それが故の重みがあり、また、それがゆえに、人のこころの成熟を扱う仕事の共通項がくっきりと見え、私の興奮と感動を喚起した次第です。

 

私は精神分析的心理療法での開業臨床を生業としており、それ以外に小・中学校、幼稚園にも臨床心理士として勤務しています。

開業は精神分析の理論(対象関係論クライン派、特にビオン)そのものを背景にして臨床を重ねますが、それ以外においても、その設定に違いはあるものの、私が行っている心理臨床の背景にはすべて精神分析の理論が自然とそこにあるといえます。

 

睫攘短卆萓犬旅峙舛涼罎濃箸錣譴燭海箸个修里發痢△修靴董△海箸个砲垢襪海箸琉婬舛随所に語られたことに、特に感銘を受けました。

まだことばにはできない幼児が、ことばの世界に住んでいるのかどうか、ものに名前があるということが分かったり、言葉を使って考えることが(こころの中で)できているのかどうか、と言われます。

実際の教育現場で、私がお伝えすることに、大人が意識できているこどもの情緒について、ちゃんと大人が言葉にして伝えることをしてあげてください、ということが多くあります。

大人は色々なことを連想し、感じとっているのに、以外とそれはこども達に伝えられていないのです。

 

こどもの言葉が少なく遅いのでは?と、相談に来られたお母さんは、話してもまだ言葉が分からないと思ったので、赤ちゃんの頃はほとんど話しかけてはいませんでしたと、教えてくださいました。

睫收萓犬慮斥佞鬚借りすると、「ことばの世界に住む」ことにおいて、後発になったのかもしれないと連想されました。

 

また、子どもにおいては楽しみながら体を動かすことの重要性を挙げられ、体をコントロールできるようになるということは、イコール、こころをコントロールできるようになるということなのですと。

つまりそれは子どものこころで身体を意識化するということだと。

使い勝手のいい体でないとあらゆる表現はできないと。

圧巻です。(笑) 文字を表現することにしろ、何事をするにせよ身体を動かすということですものね。

 

そして、ことばの機能について、スピーチ、思考、行動制御等、と言われます。

こどもの言語化を施す、それはすべて情動と共にあり、何事も経験しないことには育たないのだと。

認知(知識)ではダメなのだと、経験をことばにすることなのだと。

 

挙げればきりがないほど、沢山の刺激を頂きました。

子どもが育つということにおいて大切なことは、私たち精神分析臨床家にとっても、最も重要なことと

リンクしているという事実を改めて目の当たりにし、大喜びの私でした。

フロイトは精神分析は情動交流だと述べ、ビオンの代表的な論文には「経験から学ぶ」があります。

精神分析において、情動交流を為しながら、自身の感情、情動(逆転移・対抗転移)を意識化し、その行為(思考の含まれる行為および解釈)を調整(活用)するには無意識下であるにせよ一旦、ことばを通過していることだと思われます。

この視点に関しては、我々、精神分析臨床家の師である、松木邦裕先生が「転移は思考である」との論を進め、教示くださっているところです。

我々の(私の)乳幼児心性を使って母と乳幼児、双方のこころを漂わせ(この記載は私の思う一義であり、重層的に表現は有り余るほどあります。とだけお伝えし、ここでは省略致します)、対象者(患者・クライエント・アナライザンド)の乳幼児心性を扱っていく側面が精神分析にはあります。

ビオンのコンテイナー/コンテインド理論を思うなら、なおのことです。

 

終わりごろに睫收萓犬蓮◆×、勝ち負けで育てていくと難しくなる、情緒的に育てていくようにと言われました。

クラインやビオンの理論で言うなら、Psポジションではなく、Dポジションで子育てを、ということに他ならないでしょう。

もちろん、Ps⇔Dで、時には子どもに対してのネガティブな思いや、思いも抱かない程の非存在とする時も、行き来するということでしょう。

図らずも、年始の保護者向けの講演(中学校)では「子育てに悩むことそのものに意義がある」とのお題で行う予定で、今回の睫收萓犬里換峙舛任粒悗咾盂萢僂気擦督困たいと思います。

ありがとうございました。

 

久しぶりに、それなりの長さのある文章となりました。

経験を言葉にしてみました。(笑)

 

それでは、この辺で、失礼いたします。

 

年の瀬のお忙し折のご精読、ありがとうございました。

 

 

| 臨床心理士 | 14:57 | comments(0) | trackbacks(0)
本年は「公認心理師法」が成立
9月の参議院本会議で「公認心理師法」が全会一致で可決成立しました。 
つまり、心理職の国家資格がようやく出来上がったということになります。
(実際に公認心理士が誕生するのはもう少し先です)

臨床心理士が国家資格でないことに、同業以外の方は驚かれることかもしれません。
文部科学省、厚生労働省認可のもと、教育現場、医療現場、様々な領域で活動してきた臨床心理士の今までの実績が、法案成立の後押しとなったことは言うまでもありません。

数日前の読売新聞に、児童虐待を統括し、それを専門に扱う国家資格を、という記事がありました。
多くの痛みを経て、「今度、配属された部署が児童虐待の所で・・・」ということでは対応しきれないことが、深く認識されたことは、大変喜ばしく思います。

こころのことは、こころのことも、深い学びが必要なのです。

心理テストの技術を学ぶということはわかりやすいでしょう。
しかし、その枠(心理テスト)に、はめられないこころが日常の私たちの苦悩を彩っています。
そのこころを感知しながら、その現場に応じた対応や対策、治療がなされていくことが不可欠です。
心理テストは、そのこころの在りようを雄弁に語ってくれることではあるのですが、ではその心をどのようにそれまでとは違う方向に誘うのか、有益な変化をどうもたらすのか、その先には様様な方法論(数々ある心理療法)が展開されることとなります。

公認心理師法が成立し、心理職の国家資格が出来たことで、心理職というものに対する認知度が上がると同時に、心理職を担う人の数、その現場も増えるでしょうし、今まで臨床心理士が荷なってきた勤務状況・形態の変化もあることだと思います。

このような中、当ルームが高度な専門性を維持、発展させていくことに集中していく限り、公認心理師法によって心理職が広く社会に溶け込み、様々な現場で、人のこころを中心に、こころが大切に扱われる、そのような機会が増えることは喜ばしいこと、と私は考えます。

こころの最も深い所を扱い、真に変化していくことを望む方には、精神分析の理論による心理療法が最適であると、私は日々、その実感を深めています。

時の流れとともに変化することも受け入れながら、これからも軸を据えた我が道を進化させていくのみです。

ご精読ありがとうございました。




 
| 臨床心理士 | 18:40 | comments(0) | trackbacks(0)
「心理師」を国家資格に
 3月26日(月)、本日、読売新聞朝刊(社会面)に、大きく載りました。

今まで、何度となく頓挫してしまってきていたことが、いよいよ現実味を帯びてきたようです。

        P1040192.jpg



臨床心理士である私たちには、随時速報が送られてきたり、説明会があったり、昨今、今までになくあわただしい動きとなっておりました。


実現となると、現在の臨床心理士がそのまま国家資格化の「心理師」になるというものではありませんので、具体的にどのような流れでどのように国家資格の認定がなされていくのかということはまだ具体的には示されているところではありません。


ただ、われわれ臨床心理士の資格制度のシステムは確立されたもので、高度な専門性を担保する資格認定体制がとられていることは事実ですので、ゼロからというものではなく、国家資格(認定)試験科目の免除等、何らかの移行措置がとられることを、個人的には期待するところです。


責任の重い仕事ゆえ、社会的な後ろ盾も必要であります。



ただ、われわれはさらにその自覚をもって職責を果たしていかねばなりません。




それぞれの道を行くということですね。




     

| 臨床心理士 | 20:14 | comments(0) | trackbacks(0)
久しぶりの感覚
今日は処暑(二十四節気の一)、このまますんなり秋らしくなっていくとは思えませんが、確かにここの所すごしやすいですね。
20日(土)、21日(日)も日中くもり空で、時折雨がぱらつきましたが、過ごしやすい1日となっていました。
この両日は、第16回学校臨床心理士全国研修会が京都で開催され、私も実行委員の一人として、頑張らせていただきました。

20を超えるアルバイトをだてにしてきてないなぁ〜と、我ながら関心の働きぶりでありました。(笑)
サービス業精神ですね。(笑)

こちらからの声かけやご案内、とにかく来場者の先生方を煩わせることのないように目を配り動く。
当日はこの一言に限ります。
1日目は、偉い先生に人探しの声をかけられます。
偉い先生といっても、顔と名前が一致していたわけではなく、結果・・・でしたが、失礼のない対応が出来ました。(後で白いリボンも返しておいて・・と渡されたので偉い先生と分かって別れてから緊張しました(笑))
もうひと方、偉い先生を探しておられた方がいて、初老の品のいい方だったので一か八かで(笑)接待係りにつなげましたが、それも正解だったようで、その後に私を見つけてわざわざお礼を言ってくださいました。
2日目は担当の分科会が決まっていて、部屋の中で講義を聴いていてもよかったのですが、会場のすぐ外にいて、各会場の休憩時に出てこられた先生方へのトイレのご案内にせいを出していました。(笑)
正直、分科会会場内は満杯の人で、外にいるほうがよかったので。 (笑)
さぼっていたわけではありませんよ。(笑)

現に、今日もまだ足の筋肉痛が取れません。(笑)

このような、大会をする側の仕事(といっても我々は無給ですが)を経験させていただいたのは初めてで、その大変さと、終わた後の達成感と安堵感、そして疲労感(笑)、何よりも京都の臨床心理士仲間への敬意と誇らしさを感じ、とってもうれしかったです。

私は次の日、要するに昨日ですが、小学校での夏季研修会講師の仕事があったので、アルコールは控えましたが(資料もまだ未完だったですし)、それでもめちゃくちゃ楽しい打ち上げとなりました。

今後はもういいですが(笑)、いい経験をさせていただきました。


来賓や諸先生方からも、京都はすばらし!とのお言葉をいただけたそうで、実行委員の一員としてもうれしい限りでした。

はい。


自身の労をねぎらう意味でのアップ、ご了承くださいませ。


それでは、今日はこの辺で失礼いたします。



あ〜〜〜〜〜〜、疲れた。 (笑)




 
| 臨床心理士 | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0)
表現と責任
 今日は、中学校でのスクールカウンセラー勤務で、帰りに某回るずし(笑)で、食事を済ませ、メールのチェックなどの用事を済ませ、ふらふらの中、このようなお題での、暴挙に出ております。(笑)

あっ、ふらふらで、判断力がかけてるのか・・・・(笑)

しばしアップできていないということもありますが、ふらふらでもお題が浮かんだら、吉日として、出来はともかくとして、書いてみます。

この1週間の間に、臨床家としての私の価値観を、前もっての準備なく話すことが続いてありました。
我々の業種は、日々研鑽で、これで良し!などという明確なゴールがあるわけではありません。
周囲の判断で、「はいこれお願いします」と言われれば、それが今の自分にこなせるに違いないと、周囲が判断したのだ!と、半ば他人のせいにして(笑)引き受ける訳です。
あたかも、それは拒否する選択肢などないかのように、そして出来るのだからと一瞬の不安も一蹴です。

あっ、ちなみにクリーニングとってきてとか、これ買ってきてとか、そういうことではありません。(笑) 失礼。

引き受けたからには、役に立ちたいとおもいますし、可もなく不可もなくという、あたりさわりのないことは、どうやら器用ではなく?私にはできないようです。
周囲の評価がどうなのかは定かでありませんが、少なくとも自分ではそれなりに頑張ったと思えるほどのくたびれはその都度残しております。

可もなく、不可もなくあたりさわりのないことは実はバランスがいいのかもしれませんし、自分では価値をもたらしたいと思っていて、そうしてるつもりでも、他者にとってはまったく価値のないたわごと・・・ということもあるでしょう。

若かりし頃に、他者の評価が気になり(もちろんそれなりに今もですが(笑))、右に向いていいのか左を向いてたらいいのかわからなかったころには、お鉢が回ってくることはないようなことを今しているわけで、どうしてそれができるのかは、第一義的には私が年を取ったからに他ならないと考えます。

43歳、いい年です。(年とった〜〜という意味だけではなくです)

まだまだ、我々の業界では若造の部類ですが、それでも人生の折り返し地点を迎え、社会的には、そこそこ物の言える中間管理職といったところに差し掛かる年齢であることに間違いはありません。

え〜っと、
お題なんでしたっけ。(笑) そうそう、「表現と責任」でした。

で、です。(笑)
表現をするところには、責任が発生する!! なんて、発想はしたくないのです。

決して無責任にいる、ということなのではなく、

責任をもっているから、表現者であれるのだと!!と思い、自分の思いを私はやはり表現していきたい。
そう思うのです。

勝手にすれば。と思った、そこのあなた! さようなら。(笑)


私の相談室に来られる方への責任、専門家としての発言にまつわる責任、「責任」という言葉に押しつぶされることなく、精一杯、業務をまっとうしていることが、イコール責任を果たしているとも言えると思います。

また、その(精一杯の業務と同義の)責任があるところに、充実感が生まれるのだと思います。


与えられたご縁を、いのちのある限り精一杯、こなしていくことですね。


はい。


あ〜〜今日もこんな時間になりました。(笑)
疲れた〜〜(笑)


それでは、この辺で失礼いたします。


| 臨床心理士 | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0)
日常が研鑽材料

われわれ臨床心理士は、研修会やスーパービジョン、自身がカウンセリングをうける訓練分析、
などなど日々研鑽をしています。

資格を取ってからも、五年ごとの更新制になっており、研修のポイントが一定の基準以上でなければ、
資格を取り消されてしまうのです。

専門家としての研鑽は時間とお金をさいて、臨床心理士として仕事をする間は生涯行われていくものです。

ただ、私が常々よく思うのは、目に見える学習だけが、われわれ臨床家の研鑽材料ではなく、日常の人間関係そのものがすべて学習材料だと思うのです。

つまり、一番難しいのは、自分自身であると。
自分自身とその周囲の人との人間関係がもっとも貴重な研鑽材料であると言っても過言ではないと思うのです。

我々が心の専門家だというならば、臨床心理士の家族関係は皆良好で家庭内別居や離婚なんてありえなくて、何か問題が起きようものならすぐに解決して・・・、なんて・・・。

なんのなんの、プライベートは色々ありの、ありきたりな日常があるわけです。

もちろん、社会的役割としての責は大きく、倫理規定もありますし常識範囲を超える逸脱行為は論外ですが。

ありきたりの日常の中に、精神分析的視点でみる転移などもふんだんに盛り込まれ、あらゆる選択の中にその人の個性があり、親密な他者とどのような関係を築くかなどは、原点の親子関係が大なり小なり反映されることは想像に難くありません。

確かに、臨床心理士が行う心理相談業務の進め方は理論や研鑽・訓練からくる技術です。
そのことに何ら異論はないのですが、技術者として人を見て理論で人を判断するという域を出た所に、
言葉では言い表せない無数のメッセージが存在し、(双方の無意識をやり取りするといっても良いかも知れませんが)その中で、動いてくる、生まれてくるものがあると思うのです。

上記の様なことを言葉にすると、共感とか理解とか耳慣れた言葉になってしまうのかも知れません。

クライエントの言葉に真に耳を傾けるとは、自分自身に真に耳を傾けることと同義で、真に自分に耳を傾けてもなかなか私という人は一筋縄ではいかないと言うことを実感し、苦悩することが、聴けるようになる第一歩であり、私にとっては、いつも確かめていたい原点なのです。

自分自身をいかに自然体で生き生きと生かし、喜怒哀楽を感じ、受け入れ、毎日を精一杯生きるか。


しんどいなぁ〜〜と、情けなく口にする自分を良い状態に常にもどしながら、どうコーディネートしていくか。


しんどいなぁ〜〜、なんて言えている自分がいかに幸せか。

知っています。  (笑)


やりたいことを精一杯やっていて、しんどいのですから。 この上ないです。



日常の自分を全く離れてしまった所には、心理臨床は存在するはずがないというのが、私の思いです。



ご精読、ありがとうございました。







| 臨床心理士 | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0)
コンプレックス
臨床心理士のカテゴリーで、「コンプレックス」とは何ぞや?

すこし、心理学のことをご存じの方などは、エディプスコンプレックスのことでも書かれるのかと、
思われる方もおられるかもしれません。

心理学の分野では、コンプレックスは精神分析の用語で、簡単に言うと、強い感情やこだわりをもつ内容で、ふだんは意識下に抑圧されているものとしています。
ここでは、学術的なことを述べるわけではありませんので、シンプルにコンプレックスを「劣等感」と、思って読んでいただけたらいいと思います。

臨床心理士が、心理面接(心理療法やカウンセリング)を行う場合、その程度はその臨床心理士のよって立つ、面接技法の理論によっても違ってくるのですが、大なり小なりお見えになるクライエントのコンプレックスに触れながらその人を理解し、その人が今よりもよりよい方向へ進んで行かれることのお手伝いをするといって差し支えないかと思います。

身体にたとえて言えば、痛いところを必要性があって触るのです。

けがをして、病院をおとずれた時、痛がるから何もしなければ医療にならないのと同じです。

ただ、下手に触って痛みを倍増させたり、バイ菌をつけてより症状を悪化させたり、下手な処置をして後遺症を残したりでは専門家としてどうにもなりなせん。
こうやって今書いていて、私自身おもしろいなろあと思うほどですが、心も見事に同じです。

よって、心は目に見ては取れませんが、訓練された専門家が触ることが安全であり効果的なのです。
もちろん、はじめから完璧な医師などいないのと同様に、臨床心理士においても日々の研鑽と経験は欠かせません。

どの医師に信頼を置くか? どの臨床心理士に信頼を置くか? 
それは、人と人との相性、価値感、に左右されることはあると思いますが。

コンプレックスを触ることが最も多い技法はやはり、精神分析ではないかと思います。
他の技法は困っていることにどう対応していくかや、適応していくかに焦点を絞ってカウンセリングを進めていくのに対して、精神分析はその人の人格の変容を多少なりともねらってカウンセリングを進めていく側面があります。
なぜそうするかというのは、簡単に申し上げれば、目先の困ったことを一時的に改善させても、根本的に変革していなければ違う形でまた、問題が出で来るであろうと考えるからです。

だからと言って、やみくもにコンプレックスを触られたのではたまったものではありませんし、
痛いところはなるべく痛くないように、丁寧に触ってほしいものです。

クライエントさんと一緒になって、その痛いところ「コンプレックス」に手当をうまく施せてあげられたら・・と思い、日々臨床をこなしているともいえます。

コンプレックスの全くない人など、いないのではないでしょうか。
皆がその思春期と言われる時期には何らかのコンプレックスに打ちのめされ、それを乗り越えて少しづつ成長していくものだと思います。


自身のコンプレックスを見つめるということは、人としての成長をまた大きく伸ばす大きなチャンスだと思いますし、臨床心理士として仕事をさせていただいている中で、そうなんだなぁ・・・ということを感じています。


変な言い方ですが、コンプレックスに咲く花はとてつもなく美しい。

私は、そう感じています。


 



| 臨床心理士 | 20:02 | comments(0) | trackbacks(0)
臨床心理士の仕事
臨床心理士の仕事と、題しましたが、狭義にカウンセリング(心理療法)を していての私の心持ちを
書いてみたいと思います。

よく、こんな質問をされることがあります。

「しんどい人のしんどい話ばかり聞いていて、しんどくなりませんか?」 と。
なるほど、ごもっともな質問だ。 と、思います。  (笑)

この質問に対する正確な答えとしては 「NO」 です。

もちろん、カウンセリングが立て続けに7人・8人入っているとか言う場合は、疲れます。 
相当、疲れます。   (笑)

でも、それは他の労働に等しく、忙しくて疲れるということなので、上記の質問の答えとは違います。

一般に人の悩みを聞いて、しんどくなると言うのは、どうにかしてあげないと行けないという気持ちが発動するものの、どうしてあげたらいいのかその対応が分からず、結果、精神的にしんどくなるということが起こるのではないでしょうか。
また、相手の話を聞いる中で、自分自身の心の深い部分(無意識)が刺激を受け、その結果、
「何でか分からないけどしんどい」とか、「イライラした」とか言う反応が起こってくることも少なくないと
思われます。

この様なことは、専門職である臨床心理士にも当たり前に起こってくることです。

一部の心理テストにおいては、ある程度の心模様が、数字に客観的に現れるものもありますが、何せ目に見えない心を扱う仕事だけに、一般の方々に、この仕事を正確に理解していただくには、まだまだ我々の頑張りが足りず、「臨床心理士」というものの存在も知られていない現状があるのも否めません。
全国の中学校に配置されているスクールカウンセラーの人は、都道府県によっても違いますが、
京都府(市も含む)下においては、すべて臨床心理士が配置されています。
臨床心理士が知られるようになった、1つの大きな事業となっています。

話は戻りますが、なぜしんどくならないか?
人の相談に乗る、話を聴くという「技術」=「理論」=「視点」を 我々は学習し続けています。
また、ベテランの諸先輩に具体的な指導(スーパービジョン)を 受けたりもします。
そして、自分の無意識が動いてカウンセリングを大きく阻害することのないように自分自身も
カウンセリングを受けて自身の心を理解することに努めます。

と、ここまでは臨床心理士が共通して持っている認識だと思います。
ここからは、私の感覚という事になりますが、
そのクライエントさんに対して、 「光が見て取れる」 からなのです。
つまり、どのようなカウンセリングを続けていけば今よりもその方が望む方向への変化を促進していけるかという、道筋とも言えます。
遙か彼方のかすかな光という場合もあれば、近くはないけれどしっかりとした光が初めから見て取れる場合もあり、それはまちまちです。

私が光に向かって歩こうとしても、クライエントさんが歩かなければ近づけませんし、どうするかの選択はすべてクライエントさんの手の中にあります。
その点においては、私の側での気負いはありません。
人が変化していくのには、時間はかかります。
それでも頑張って変化し続けて行かれる、その場面に立ち会えることが臨床心理士としての
私の喜びでもあるのです。 

また、自分の課題にしっかり向き合い苦悩するという感情に対して、私は無条件に尊敬の念をもてると言うこともしんどくならない要素だと思います。

しんどいことは、本当にしんどいのです。 

今、しんどくない人は、本当にラッキーなんです。
しんどい家庭環境に生まれ落ちなかったことも、「たまたま」で、そのような環境の中で生き抜いて来ている人は、すごいんです。

と、私には思えてしまうので、しんどい話を聴かせていただけば頂くほど、変な話ですが、感動しうれしくなる部分があったりするのです。

「この方、本当にすごいなぁ・・・と。」


精神分析を扱う、臨床心理士の先生方からすれば、これは逆転移とよばれるものだなぁと、文面を読んで頂いていることと思います。

逆転移、クライエントとの信頼関係、治療同盟、はてさて・・・・。
私は、自由に動く自分の心を尊重しながらも、少しでも正確にその動きをとらえ、と心していますが、
実のところははかるすべもありませんが。  (SV、SV(笑))
すみません。また、少し話がずれました。    (笑)

では、カウンセリングの数が少なければしんどくないのか?

疲労という側面ブラスα、しんどいことはあります。

心と身体、同じく考えて頂くと良いと思います。
例えば、外科医として、外傷の縫合と、心臓や脳の手術とはくたびれはやはり違うと思います。
いずれの場合でも、うまい、へたも正直あります。


心を扱う場合でも、私は同じだと思っています。


命がけで事にあたることがあるのです。



長くなりました。


この辺で、お開きとします。



拝読、ありがとうございました。











| 臨床心理士 | 20:00 | comments(0) | trackbacks(0)
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